はかまらくがき工房

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安西ひろこ


Edit Category 似顔絵 > タレント(国内)
安西ひろこパッチリした目が印象的な安西ひろこさん。最近見ないと思っていたがこのほど復活した。再び出てきたらなんだかイメージが変わっていた。

以下の安西ひろこさんの記事はウィキペディアのものだが、いなくなっていた時期のことは記されていない。

~★~★~★~

安西 ひろこ(あんざい ひろこ、1979年2月9日 - )は、日本の女優、タレント、モデル。本名、安西 紘子(あんざい ひろこ)。

神奈川県相模原市出身。相模原市立大野北中学校卒業。愛称は"ひろ"、"ひろぽん"、"あんぴろ"など。1998年度のフジテレビビジュアルクイーン。身長157.3cm、B89、W62、H90。IDO所属。

概要
中学卒業後、東京都町田市にある明泉学園鶴川高等学校普通科へ入学。しかし、芸能活動を一切禁止していた同校在学中にCMに出演してしまったため、自主退学へと追い込まれたが、北豊島高等学校(通信制)に編入して卒業。

1996年、グラビアアイドルとして芸能界デビュー。この時、年齢を1歳下にごまかしてデビューしていたが、成人式に二度出席していることが判明。目撃者からは疑問の声が上がっていた。 それから数年後、ダウンタウンDXにて年齢詐称を告白するが、浜田雅功に「1つくらいええやんか」と軽く言われ、また当時は年齢詐称に対し比較的寛容だったため、大きな騒ぎにはならずに済んだ。

1990年代後半までにグラビア、写真集の出版、テレビのバラエティー番組など多岐に渡る活躍をしていたが、1999年、ティーンズ雑誌のモデルに転向。 また、人気歌手の浜崎あゆみとともに、女子中高生のカリスマ的ファッションリーダーとして人気を集めた。 2000年以降にはエイベックスから歌手としてCDデビュー。安室奈美恵、MAX、V6などを手がけた事で日本でも有名なユーロビート作家のデイブ・ロジャースがプロデュースした。また、女優としても各テレビ局のドラマに出演。

特技は柔道(初段)と水泳で、特に柔道は中学生時代に神奈川県大会のベスト8まで到達したことのある実力の持ち主。 バラエティ番組ではお笑い芸人やタレントを背負い投げできれいに投げるパフォーマンスをしたり、トーク番組などで当時の部活の練習の過酷さをよく話していた。

2007年11月、CHEMISTRYの川畑要との交際が破局したと報道された。その際、すでに芸能界からは身を退いているとも伝えられたが、海外ブランド輸入ショップ「トコパシフィック」のスタッフとして同社のモデルとして活動するなど、完全に引退したというわけではなかった。


2008年9月、ギャル系ファッション誌BLENDA BLACKにて本格的に芸能界に復帰。7年ぶりの仕事に至った経緯や心境を綴った直筆メッセージなどが掲載された。

2009年3月より、本人によるブログがスタート。同年5月11日放送のしゃべくり007(日本テレビ)で久々のテレビ出演を果たした。


出演

テレビドラマ
ギフト(1997年、フジテレビ)
Days(1998年、フジテレビ)
救急ハート治療室(1999年、関西テレビ・フジテレビ系)
20歳の結婚(2000年、TBS系)
スタアの恋(2001年、フジテレビ系)

バラエティ
BiKiNi(1997年10月 - 1998年9月、テレビ東京)
ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!(1998年4月 - 2000年3月、テレビ朝日)
ごごいち(1998年4月 - 9月、フジテレビ)
恋のチューンネップ!!(1998年10月 - 1999年9月、日本テレビ)
特捜TV!ガブリンチョ(1998年10月 - 2001年3月、テレビ朝日)
加ト・けん・たけしの世紀末スペシャル!!(1998年12月19日、フジテレビ)
グラビアの美少女(MONDO21)
しゃべくり007(日本テレビ、2009年5月11日)

CM
NTTドコモ北海道
ツーカーセルラー東京
資生堂
日本コカ・コーラ ジョージア
ロッテ 雪見だいふく
アラクス ノーシンピュア
明星食品 一平ちゃんラーメン 一平ちゃん焼そば
東芝
日本赤十字社
東京都消費生活総合センター

映画
渚のシンドバット(1995年、東宝)
岸和田少年愚連隊 野球団〈岸和田少年野球団〉(2000年)

作品

写真集
Mystic (1997年11月、英知出版) ISBN 978-4-7542-1175-2
ヒロイン (1998年3月、白泉社) ISBN 978-4-592-73150-4
Embrace (1998年10月、ワニブックス) ISBN 978-4-8470-2502-0
Pleasuure blue (1999年3月、ぶんか社) ISBN 978-4-8211-2264-6
Privates (1999年9月、テイ・アイ・エス) ISBN 978-4-88618-201-2
最後の蒼 (2000年2月、近代映画社) ISBN 978-4-7648-1909-2

書籍
ハッピーガーリー (2000年9月、主婦と生活社) ISBN 978-4-391-61154-0
FASHION BOOK AF (2001年4月、竹書房) ISBN 978-4-8124-0735-6
「R」 (2001年12月、講談社) ISBN 978-4-06-336346-3

イメージビデオ(VHS)
安西ひろこ '97 No.1美少女アイドル(1997年、笠倉出版社)
この胸をあなたに・17才 (1997年、hmp)
Hi! Roco & Roco フジテレビ VISUAL QUEEN OF THE YEAR(1998年、ポニーキャニオン)
Final Beauty 安西ひろこ(1999年、ビームエンタテインメント)

イメージビデオ(DVD)
Final Beauty 安西ひろこ(1999年、ビームエンタテインメント)
Feel in ITALY(2001年、キングレコード)
ЯESOLUTION(2001年、エイベックス)

音楽
全てavex traxからリリース。


シングル
True Love(2000年10月18日) 「ただいま満室」挿入歌
Necessary(2001年4月25日) 「OLヴィジュアル系」主題歌
Andersen(2001年9月5日)
Let You Go(2001年10月24日)

アルバム
ЯEAL(2001年11月28日)

DVD
RESORUTION(2001年12月12日)

その他
SUPER EUROBEAT VOL.150 (2004年8月4日発売) AVCD-10150 ※ディスク2にTrue Loveが収録されている。

外部リンク
安西ひろこ公式ブログ 「HIROの…魔法をかけちゃうぞっ」
安西ひろこ - IDOオフィシャルプロフィール

辻村明須香


Edit Category 似顔絵 > スポーツ
辻村明日香リンクをさせて頂いているゴルフの辻村明須香プロ。綺麗な方です。

2007年3月のダイキンオーキッドレディスで2位になった試合は、わたしの記憶が正しければ、テレビで見たように思います。

以下の記事はウィキペディアより。

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辻村明須香(つじむら あすか、1982年11月28日 - )は、福岡県出身の女子プロゴルファーである。愛称は「あすみん」。身長170cm、体重56kg。血液型A型。

経歴
4歳でおもちゃのクラブを握り始め、小学3年の時に本格的にゴルフを始める。
北九州市の九州ゴルフ専門学校を卒業後、2003年に2度目の挑戦でプロテスト合格(75期生)。
2007年3月のツアー開幕戦ダイキンオーキッドレディスに主催者推薦で出場し、プレーオフで米山みどりに敗れたものの2位と大健闘を見せた。
吉川ひなの、長谷川京子、新垣結衣らと同じ事務所レプロエンタテインメントに所属。フジテレビ「ジャンクSPORTS」に出演するなど、美人ゴルファーとして注目されている。
2007年9月、インスタントラーメンの日清食品とスポンサードを結ぶ。

年度別成績
年度 出場試合数 獲得賞金 賞金順位 最高成績
2004 28試合 1,952,000円 101位 33位タイ
2005 7試合 520,000円 146位 46位タイ
2006 8試合 7,582,050円 76位 3位タイ
2007 7試合 8,306,000円 74位 2位

外部リンク
公式サイト
あすみんオンライン 辻村明須香ブログ
LPGAプロフィール

八木亜希子


Edit Category 似顔絵 > タレント(国内)
八木亜希子八木さんはフジテレビのタレント的女子アナが流行りだした初期のころの人。有賀さんや河野さんと確か同期。笑顔が一番可愛い人であった。

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八木 亜希子(やぎ あきこ、1965年6月24日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント。フォニックス所属。元フジテレビアナウンサー(1988年4月~2000年3月)。

来歴・人物
静岡県引佐郡三ヶ日町(現在の同県浜松市北区)で生まれ、神奈川県横浜市に移る。 横浜雙葉高等学校、早稲田大学第一文学部哲学科心理学専修卒業後、1988年フジテレビへアナウンサーとして入社。同期入社のアナウンサーは有賀さつき、河野景子(この二人とともに、いわゆる「女子アナ三人娘」と呼ばれたこともある)、青嶋達也。

ドラマ出演やCDデビューなど、アナウンサー以外の活動でも話題となったが、2000年3月末に退社。半年ほど経て、共同テレビジョン所属のフリーアナウンサーに。タレント・女優としても活動し、テレビCM・ドラマ・映画などに出演。2002年10月、大学時代の同級生である会社員と結婚。その後、アメリカのニューヨーク、カリフォルニア州サンノゼに在住し、現在は帰国し神奈川県在住。

明石家さんまと司会コンビを務めるクリスマス特番『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』(フジテレビ系)は、フジテレビアナウンサー時代の1990年から現在に至るまで続いている。2008年10月30日に古巣のフジテレビ、共同テレビ、セント・フォースが共同で設立したアナウンサー・プロダクションフォニックスに移籍した。


現在出演中の番組
BSフジLIVE PRIME NEWS(BSフジ) - 月~金曜19:00-20:55(2009年4月1日~)※月~木キャスター
リュウイン先生の楽食美人~漢方レシピでヘルシーエイジング~(BSフジ) - 木曜22:30-23:00 (再)土曜7:30-8:00
あなたとハッピー!(ニッポン放送) - 木曜日のみ(2008年1月10日~)
TOKYO CONCIERGE(J-WAVE) - 2001年4月~2003年3月、2008年10月~
明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー(フジテレビ) - 1990年12月25日~(毎年イブの深夜)
クメピポ! 絶対あいたい1001人(MBS系) - 2009年4月15日~

フリー転身後の出演
FNS春の祭典2000 - 2000年4月5日
FNS秋の祭典2000 - 2000年10月4日
爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル - 2000年12月~2002年12月
女子アナ。 - 2001年1月(第1話ゲスト出演)
みんなのいえ - 2001年公開(準主役級)
THE 有頂天ホテル - 2006年1月14日公開(客役)
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式 - 2007年2月10日公開(本人役)
明石家さんちゃんねる(TBS)- 2007年4月~2008年9月
八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション(ニッポン放送) - 2007年4月27日、2007年6月22日
2007天神祭生中継(テレビ大阪)- 2007年7月25日 ※司会
ボクらの時代(フジテレビ)- 2007年11月4日
垣花正のあなたとハッピー!(ニッポン放送)- 2007年12月11日
容疑者Xの献身 - 2008年10月4日公開(ニュースキャスター役)
久米宏のテレビってヤツは!?(MBS)- 2008年10月8日~2009年3月11日

CM
フュージョン・コミュニケーションズ
花王
小林製薬

フジテレビ時代の出演
ニュース・情報番組
FNNスーパータイム(お天気コーナー) - 1988年7月~1989年9月
お天気チャンネル - 1988年10月~1989年9月
FNNモーニングコール(月・火) - 1989年4月~1990年3月
今夜は好奇心!(リポーター) - 1990年4月~1991年3月
アンテナホット7(月・火・水) - 1990年7月~9月
FNNスーパータイム(週末版メインキャスター) - 1990年7月~9月
FNN NEWSCOM(金) - 1990年10月~1991年3月
プロ野球ニュース(日) - 1993年4月~1994年3月
おはよう!ナイスデイ - (司会)1991年4月~1993年3月
めざましテレビ - (司会)1994年4月~1998年3月
めざましテレビ週末号 - (司会)1997年4月~1998年3月
FNNスーパーニュース - (メインキャスター)1998年4月~2000年3月
バラエティ
出たMONO勝負
VIDEOレイダース - 1989年~1990年3月
ビデオの王様 - 1990年4月~9月
ビデオの女王様シリーズ - 1990年10月~1992年3月
初詣!爆笑ヒットパレード - 1991年1月1日
FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島 - 1991年7月20日(総合司会)
夜のヒットスタジオ・リターンズスペシャル - 1993年3月31日
殿様のフェロモン - 1993年4月~9月
明石家さんまのスポーツするぞ!大放送 - 1993年~1997年(全11回)
新春かくし芸大会 - 1994年、1995年、1998年、1999年、2003年
エンタメゆうえんち 東京移住計画 - 1995年10月~1996年3月
平成教育テレビ - 1996年7月13日(進行係)
ザッツお台場エンターテイメント! - 1997年3月31日
中村雅俊のゼッタイ!知りたがり - 1997年4月~1998年3月
FNS30周年'99秋の祭典 - 1999年9月29日
これが年の差なんてだろ!? - 2000年2月
ゲーム
真説サムライスピリッツ 武士道烈伝 (小田桐圭役〔声優として出演〕)
パワーリーグシリーズ
スーパーパワーリーグ3(プロ野球ニュースのキャスター〔声の出演〕)
スーパーパワーリーグFX(プロ野球ニュースのキャスター〔同僚の福井謙二と顔出しで出演〕)

エピソード
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事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。
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就職活動当時日本テレビも受験していたが、最終面接で不合格となった。
フジテレビの入社最終面接で、ミュージカルが得意と履歴書に書いていたために、当時の鹿内春雄会長から踊るように言われ、その場で一人ミュージカルを演じた。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』の名物コーナー「食わず嫌い」の収録後トークで、そのミュージカルのことを石橋貴明に突っ込まれ、恥ずかしさのあまり顔を赤らめ両手で頭を抱えしゃがみ込んでしまった。ちなみに食わず嫌いは高野豆腐であった。
1991年にはウッチャンナンチャンの内村光良との交際を写真誌に撮られたこともあった。内村が会見で交際宣言。その後破局。
俳優の宮川一朗太は早稲田大学第一文学部の同級生。
元日テレアナウンサーの福澤朗は大学時代からの友人。
フリーアナウンサーの渡辺真理は、中学・高校の後輩。

関連人物
露木茂
大塚範一
三谷幸喜
明石家さんま

岡部いさく


Edit Category 似顔絵 > タレント(国内)
岡部いさく北朝鮮が元気だ。

例によって駄々をこねる3歳児のぐずる姿を見ているようで失笑の日々である。

人工衛星だと嘘を言って大陸間弾道ミサイルを飛ばしてみせたり、核実験と見せかけて地下で大量のTNT火薬を破裂させてみせたり(こういう説もある、という話)、なけなしの近距離ミサイルを連日発射してみせたりして、自分は強いんだ、自分は強い大人なんだ、と見せかけようとしているが成功していない。駄々をこねる3歳児であることになんのかわりもない。しかも馬鹿だ。

「PSIに正式参加した韓国には宣戦布告だ」と吠え立てるものの、実際の戦闘になったら半日くらいで掃討されるに違いない。核弾頭だってきっと持ってない(という説もある)。持ってないからこそ、持っているように見せかける芝居に手が込んでいる。下手な手品師だ。北朝鮮を黙らせるには、対話でも国連決議でも武力行使なく徹底して無視することではあるまいか。

今回、ロシアと中国が北朝鮮に冷たいのが気になる。駄々をこねる3歳児を、これまで可愛がってきた親戚までもが批判しだすと、3歳児は家出してしまうかもしれない。あるいは自傷や自殺の方向へ走ってしまうかもしれない。親愛なる馬鹿領主やアホ軍人たち、訳の判らないアナウンサーらがどうなろうが関係ないが、飢える北朝鮮の民衆とりわけコッチェビの子供たちがもっと酷い目に逢うのを見るのは忍びない。彼らは何も悪くないのに馬鹿どもが国を牛耳っているおかげで毎日が生命の危機だ。何とかして彼ら民衆を助けてあげられないものか。

いずれにせよ、北朝鮮が暴発して半日でなくなってしまうのはもったいない。もっともっと馬鹿なことをやって、もっともっと末永く楽しませてもらいたい。駄々をこねる北朝鮮を見ているのは、見え透いた猿芝居を見ているようで本当に笑える。今日はどんな馬鹿な発言をするのか、見るのがひじょうに楽しみな今日この頃である。

以下、こういった軍事的な情報に強い岡部いさくさんに関する記述はウィキペディアより。

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岡部いさく(おかべ - 、1954年 - )は、日本の軍事評論家。本名同じ。別名・岡部ださく。 埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身。学習院大学文学部フランス文学科卒業。航空雑誌「月刊エアワールド」編集者、艦艇雑誌「月刊シーパワー」編集長を経て、フリーとなる。フジテレビの報道番組に出演することが多い。父親は漫画家の岡部冬彦。姉は漫画家のおかべりか、妹はイラストレーターの水玉螢之丞である。

人物
「月刊モデルグラフィックス」誌上等にて「岡部ださく」のペンネームで『世界の駄っ作機』シリーズも執筆し、軍事ファンにしか解らないコアな視点でユーモアのある軍事批評も行う。またF1ファンでもあることから、雑誌「F1グランプリ特集」(ソニー・マガジンズ)では航空機とF1マシンに共通するテクノロジーを取り上げるコラム『スピンオフ』を連載している。

アニメ『ストラトス・フォー』のOVA第2シリーズである『ストラトス・フォー アドヴァンス』に軍事評論家として実名で登場し、声も担当した。また、フジテレビ系列で放送された『海猿』のテレビドラマ『海猿 UMIZARU EVOLUTION』にも軍事評論家役で出演している。

ガンダムファンとしても知られ、アニマックスで放送された劇場版『機動戦士Ζガンダム』の特別番組に出演し、エマ・シーンのファンであると語った。そういった関係からか、『マスターピース ゼータ・ガンダム』ではサイド6のリーアコロニー出身の軍事評論家「イサク・オカベ」としてΖガンダムに関する考察文を書いている。また、『機動戦士ガンダム00』には、設定協力として制作に参加する。

またコアなロボットアクションゲーム『アーマード・コアシリーズ』の初代からのファンでもあるらしく、最新作『アーマード・コア フォーアンサー』のプロモーションでは当該世界に住む軍事評論家として、登場するACやAF等の兵器などの解説をした動画が配信された。

具体的な病名、症状は明らかにされていないが、2000年代に入ってから歯牙の障害が著しく進行し、TV出演などで滑舌よく話すことが難しくなってきている。

著書
世界の駄っ作機 1-3 岡部ださく 大日本絵画 1999-2003 
検証:日本着弾 「ミサイル防衛」とコブラボール 石川潤一,能勢伸之共著 扶桑社 2001
クルマが先か?ヒコーキが先か? A great deal of complexity 1-3 二玄社 2002-07 
世界の駄っ作機 番外編 大日本絵画 2004
戦争のリアル disputationes Pax Japonica 押井守共著 エンターブレイン 2008

翻訳
現代の戦闘機 ビル・ガンストン ホビージャパン 1988 (イラストレイテッド・ガイド 1)
パンツァーズ・イン・ノルマンディ Eric Lefevre 大日本絵画 c1988
スパイ機 ビル・ガンストン ホビージャパン 1988. (イラストレイテッド・ガイド 4)
英仏海峡の空戦 デズモンド・スコット 朝日ソノラマ 1990 (新戦史シリーズ)
ソビエトウイングス 現用ソビエト軍用機写真集 アレクサンダー・M.ズース 大日本絵画 1991
巨星「ヤマモト」を撃墜せよ! 誰が山本GF長官を殺ったのか!? C.V.グラインズ 光人社 1992
イスラエル空軍 メラヴ・ハルペリン,アハロン・ラピドット 朝日ソノラマ 1992 (新戦史シリーズ)
バルジの戦い ジャン・ポール・パリュ 大日本絵画 1993
ドイツ空軍の終焉 西部戦線ドイツ戦闘機隊、最後の死闘 ヴェルナー・ジルビッヒ 大日本絵画 1994
Dデイの惨劇 1944年6月、連合軍敗退 ピーター・ツォウラス 大日本絵画 1995
はやわかり第二次世界大戦史 ジョン・マロン 光人社 1999
633爆撃隊 フレデリック E.スミス 光人社NF文庫 2000 
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E3%81%84%E3%81%95%E3%81%8F" より作成

反町アナ


Edit Category 似顔絵 > タレント(国内)
反町理アナウンサー反町さんはフジテレビのアナウンサーである。

いつも国会記者クラブにいるようにみえる。

主に安藤さんと会話しているようにみえる。

わたしは反町アナが好きだ。なぜなら、彼が画面に現れると、きらびやかに装飾を施し視聴率のためなら平気で嘘をつく(やらせ)ような映像メディア(もちろんすべてがそうではないが)全体に対して挑戦のようにみえるからである。

ゆけ、反町アナウンサー。
がんばれ、反町アナウンサー。

以下の反町さんに関する記述はウィキペディアより。

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反町理(そりまち おさむ、1964年4月26日 -)はフジテレビジョンの記者、ニュースキャスター。

来歴・人物
神奈川県出身。1987年、早稲田大学政経学部政治学科卒業。同年、株式会社フジテレビジョン入社。フジテレビ報道局政治部に所属しており、2009年4月1日から、BSフジのBSフジLIVE PRIME NEWSのキャスターを務める。


現在出演中の番組
BSフジLIVE PRIME NEWS(BSフジ) - 月~金曜19:00-20:55(2009年4月1日~)

エピソード
178cm、100kgの巨体で草野球を本格的な趣味にしている。草野球チーム「ROUTE」に所属している。
1993年の夏に、政治部の一若手記者ながら、横井克裕アナウンサー(当時)の代役として『FNNおはよう!サンライズ』にサブキャスターとして出演したことがある。メインキャスターの上田昭夫がエンディングで「横井アナがガッチリした体格のため、同じく体格のいい人を呼んだ」という旨の説明をした。

反町隆史


Edit Category 似顔絵 > タレント(国内)
反町隆史蒼き狼チンギス・カンを演じた反町隆史さん。チンギス・カンの肖像とは似ても似つかないがさすがはモンゴロイド、雰囲気は出ている。顔を似せるだけであれば泉谷しげるさんのほうが良かった。

以下、反町隆史さんに関する記事はウィキペディアより。

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反町 隆史(そりまち たかし、本名: 野口 隆史(のぐち たかし)、1973年12月19日 - )は、日本の俳優。埼玉県浦和市(現在のさいたま市南区)出身。所属事務所は研音。血液型AB型。身長181cm、体重65kg。

略歴
浦和市立大谷場小学校、浦和市立大谷場中学校、浦和学院専門学校高等課程中退。専門学校在学中からモデルなどを経験。 デビュー当初はジャニーズ事務所に所属しており、平家派のメンバーとして光GENJIのバックダンサーを務めていたが、所属事務所を研音に移籍してからはファッションモデルとして活躍。この時に今の芸名に改名する。由来は元プロボクサーでOPBFウェルター級チャンピオンにも輝いた「龍反町」(りゅう・そりまち)で、社長が「龍のような男になれ」という願いを込めて名付けたという。ちなみに龍の本名は反町則雄である。

1994年にテレビドラマ『毎度ゴメンなさぁい』で俳優デビュー。以降、テレビドラマを中心に活躍する傍ら、歌手としてもライブ活動などを積極的に敢行(現在は、歌手としての活動はない)。

1997年から1998年にかけて『バージンロード』『ビーチボーイズ』『GTO』といった話題作に立て続けに出演し軒並み高い視聴率を獲得。また、この時期は木村拓哉と肩を並べるほどの勢いがあった。

ドラマ『GTO』で共演した妻の松嶋菜々子とは、GTO撮影終了から約1年後の1999年11月に交際スタート(GTO撮影時は、まだ付き合っていない)

2001年2月、2月21日に入籍、結婚。2月22日に、フジテレビのスタジオで、2人で会見を開いた。2人の人気はその当時既に絶頂であったため、芸能史上稀に見るビッグカップル誕生と騒がれた。

2004年5月31日に長女、2007年11月30日に次女が誕生。プライベートと仕事を区別しているため、子供は一切公表していない。


人物
趣味は音楽鑑賞、バスフィッシング。バスフィッシングでは、現在TBC(利根川バスクラブ)に所属、同団体が開催しているバストーナメントに参戦しており、過去には入賞経験もある腕前。TBC2008第5戦では5位に入賞している。また、ルアーメーカーであるメガバスがスポンサードしており、国際フィッシングショー2008ではメガバスブースに顔を出している。
学生時代にやっていたスポーツはサッカーで浦和市立大谷場小学校の2年生から本格的にサッカーを始めた。将来の夢はプロサッカー選手か漁師になることだった。
市立大谷場中学校3年生の時ジャニーズ事務所入りして、本名の野口隆史で活動。当時人気グループだった光GENJIのバックダンサーとして活動してた時期がある。

歌手活動
歌にはこだわっており、1997年に「Forever」で歌手デビューを果たす。アルバムも発売している。さらに『第48回NHK紅白歌合戦』(NHK、NHK紅白歌合戦)にも初出場し、1998年には憧れだったシンガーソングライター氷室京介提供作品「One」、自身が主演を果たしたドラマ『GTO』の主題歌「POISON 〜言いたい事も言えないこんな世の中は〜」をリリースし、いずれもヒット曲となった。それ以降歌手としての活動はしていない。作詞は、インタビューで「僕は僕自身の言葉で語りたい」と語っていた事もあり、すべて反町自身が手掛けている。


ジャニーズJr.時代の参加ユニット [編集]
平家派

出演
太字は主演作品

テレビドラマ
毎度ゴメンなさぁい (1994年7月5日 - 9月20日・TBS系列・高田裕二役・松雪泰子主演)
部屋においでよ (1995年1月13日 - 3月24日・TBS系列・中原健役・清水美砂主演)
毎度おジャマしまぁす (1995年4月11日 - 6月27日・TBS系列・鶴田裕二役・松雪泰子主演)
未成年 (1995年10月13日 - 12月22日・TBS系列・坂詰五郎役・いしだ壱成主演)
竜馬におまかせ! (1996年4月10日 - 6月26日・日本テレビ系列・岡田以蔵役・浜田雅功主演)
翼をください! (1996年7月1日 - 9月23日・フジテレビ系列・桜木淳弥役・内田有紀主演)
バージンロード (1997年1月6日 - 3月17日・フジテレビ系列・吉見薫役・和久井映見主演)
ビーチボーイズ (1997年7月7日 - 9月22日・フジテレビ系列・桜井広海役)
GTO (1998年7月7日 - 9月22日・フジテレビ系列・鬼塚英吉役)
Over Time-オーバー・タイム (1999年1月4日 - 3月20日・フジテレビ系列・楓宗一郎役)
チープ・ラブ (1999年10月15日 - 12月17日・TBS系列・柳瀬純一役)
ラブコンプレックス (2000年10月12日 - 12月21日・フジテレビ系列・真行寺アユム役・唐沢寿明とW主演)
ナンバーワン (2001年12月27日・TBS系列・夢野狂夜役)
利家とまつ〜加賀百万石物語〜 (2002年1月6日 - 12月15日・NHK・織田信長役・唐沢寿明主演)
ダブルスコア (2002年10月8日 - 12月17日・フジテレビ系列・橘真ノ介役)
ホットマン (2003年4月10日 - 6月19日・TBS系列・降矢円造役)
流転の王妃・最後の皇弟 (2003年11月29日 - 11月30日・テレビ朝日系列・桜井哲士役)
ワンダフルライフ (2004年4月13日 - 6月29日・フジテレビ系列・桐島明役)
シェエラザード 海底に眠る永遠の愛 (2004年7月31日・NHK・陸軍少佐/堀勝一役)
ホットマン2 (2004年10月7日 - 12月23日・TBS系列・降矢円造役)
日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ (2005年10月11日・日本テレビ系列・杉原千畝役)
戦国自衛隊・関ケ原の戦い (2006年1月31日、2月7日・日本テレビ系列・伊庭二等陸尉役)
14才の母 (2006年12月13日、20日・日本テレビ系列・土田太郎役・志田未来主演)
千の風になって 第2弾「ゾウのはな子」 (2007年8月4日・フジテレビ系列・吉岡亮平役)
ドリーム☆アゲイン (2007年10月 - 12月・日本テレビ系列・小木駿介役)
ロト6で3億2千万円当てた男 (2008年7月 - 9月・ABC・テレビ朝日系列・立花悟役)

映画
君を忘れない (1995年9月23日・日本ヘラルド映画・三浦草太・唐沢寿明主演)
GTO (1999年12月18日・東映・鬼塚英吉役・鈴木雅之監督)
フルタイム・キラー(FULL TIME KILLER 全職殺手) (2001年8月3日・"O"・香港公開、アンディ・ラウと共演)
13階段 (2003年2月8日・東宝・三上純一役)
男たちの大和/YAMATO (2005年12月17日・東映・角川春樹事務所)
蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜 (2007年3月3日・松竹・角川春樹事務所)

ドキュメント
火曜ワイドスペシャル「反町隆史が泣いた アフリカ最高峰・キリマンジャロに挑む」2000年7月25日

CM
江崎グリコ 『アーモンドチョコ』 『ココナッツポッキー』 『LEE』
関西セルラー
ロート製薬 『ロートZi:Φ』『ロートZi:fLush』
資生堂 『アグレ』
三菱自動車工業 『パジェロ Jr.』
富士フイルム 『エピオン』
UCC上島珈琲 『UCCスーパー2』
ダイワ精工 『企業』
日本航空 『'98 JAL 沖縄』 『JAL SKI 北海道'99』
日本コカ・コーラ 『リーフス』
永谷園 『お茶漬け海苔』
マイクロソフト 『MSN Hotmail 年賀状キャンペーン』
ポーラフーズ 『MINTIA』
三共 『リゲイン』
合同酒精 『Hi-Boy』
ミリオンカード・サービス 『ミリオンカード』 『ミリオンギフトカード』
UFJカード
ライオン 『デンターアミノ』
トヨタ自動車 『トヨタ・ヴォクシー』
中央商事 東急不動産 東京急行 三菱地所 相鉄不動産 『Prize Hill』
キリンホールディングス
キリンビバレッジ 『FIRE オンリーワン』『FIRE 挽きたて工房』
キリンビール 『麒麟ZERO』
花王 『アタック』

音楽

シングル
Forever (1997/7/30、キティMME)
リッチー・サンボラがギターとコーラスで参加している。
フジテレビ系ドラマ「ビーチボーイズ」主題歌。
FOREVER DREAM (1997/12/19、キティMME)
ONE (1998/4/15、キティMME)
作曲は氷室京介。後に、氷室がセルフカバーをした。
サントリー「FIRE」CMソング。
POISON 〜言いたい事も言えないこんな世の中は〜 (1998/7/29、キティMME)
フジテレビ系ドラマ「GTO」主題歌。
Poison -Movie Mix- (1999/12/18、キティMME)
Free (2000/11/1、ユニバーサル・シグマ)

アルバム
メッセージ (1997/9/10、キティMME)
HIGH LIFE (1998/9/18、キティMME)
SOUL (2000/12/6、ユニバーサル・シグマ)

ベストアルバム
BEST OF MY TIME [Limited Edition] (1999/3/17、キティMME)
スペシャル・ボックス仕様。スペシャル・ビデオと未公開写真集を含むブックレットをセットにした豪華版。
BEST OF MY TIME 〜1999 (2000/3/29、キティMME)
BEST OF MY TIMEに、映画版『GTO』主題歌「POISON〜movie#mix〜」を新しく収録。
BEST of BEST (2006/6/7、ユニバーサルJ )

ビデオ
メッセージ (VHS:1997/10、DVD:2000/12/20)
ONE HOUR LIVE MESSAGE (VHS:1998/03、DVD:2000/12/20)
CLIPS and more (VHS:1998/12)
TAKASHI SORIMACHI LIVE TOUR'98 HIGH LIFE (VHS:1999/02、DVD:2000/12/20)
1997-2000 SINGLE CLIPS (DVD:2000/12/20) VHS「CLIPS and more」にPV「Free」を追加収録したもの。



RUN AND GUN (VHS:1999/07) プライベートバスフィッシングビデオ

著書
Song of Love―TAKASHI SORIMACHI (2001/06 ワニブックス)

チンギス・カン


Edit Category 似顔絵 > 政治
チンギス・ハーンわたしが初めてジンギスカン鍋を食べたのは25歳のとき札幌にあるサッポロビール園で。うまかった。

以下の記述はチンギス・カンについてのウィキペディアからの記述。

~★~★~★~

チンギス・カン(1162年頃? - 1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)(在位1206年 - 1227年)。

一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。その帝国がチンギスの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄としてチンギスは賞賛された。とくに故国モンゴルにおいて、チンギスは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。生年は異説あり。

名前
一般には近代モンゴル語 Чингис Хаан [ʧiŋgɪs χaːŋ](ヘルプ・ファイル)に近いチンギス・ハーンという表記が広く用いられており、同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音した。本項でもこれを使用する。漢字では、「成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・ハン」という発音を漢字に写したものである。(中国語での発音とすれば、これはチンギス・ハンである。カンではない。)

かつてはアラビア文字表記による جنكز خان (jinkiz khān) から転訛した欧米の諸言語の発音に基づきジンギス・カンと書かれることが多かったが、チンギスの表記が一般化した現在では、むしろまれである。

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。


生涯

チンギス・カンの先祖と生い立ち
チンギス・カンの生まれたモンゴル部は遊牧ウイグル帝国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民だった。

チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫をもたないまま3人の息子をもうけた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。

ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。やがて、ボドンチャルから7代目とされるカブルがモンゴル諸部族で最初のハーン(カン、ハン)の称号を、名乗りカブル・カンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。チンギス・カンの父イェスゲイ・バアトルはカブル・カンの孫で、第3代カンとなったクトラ・カンの甥である。

チンギス・カンはそのイェスゲイの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin, 鉄木仁もしくは鉄木真)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。『元朝秘史』などによるとこの時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい[2]、このためイェスゲイはその戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見えるポール・ペリオによると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『雑阿含経』第25巻にある『アショカ王物語』(Ašokāvadāna)の中で、カウシャンビーの王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に着け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。

テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとは分からない。一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。

1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」(1155年1月6日-2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカとテムジン・ウゲ捕縛の年だったことが説明されている。また没年も「ブタの年」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」とあり、生没年が同じ「ブタの年」だったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日-2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。

一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、孟珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。

このようにチンギス・カンの生年の年代について、資料によって様々であり多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀 編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296‐1370)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者柯劭(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。

ちなみに、この「テムジン」(temüǰin)とはテュルク・モンゴル語で「テムルチ」(temür-či)、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶屋だった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13、14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家パキメレスや、同じくマムルーク朝の歴史家ヌワイリー、1247年のグユクの即位に列席したキリキアの小アルメニア王国のハイトン1世の旅行記、さらには1254年にモンケの宮廷を訪れたルブルクのギヨーム修道士の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。

父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトル(勇者)の称号をもつ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・カン)とも同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで一代で急速に勢力を拡大した。また、『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられている。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。

テムジンは父の死の知らせを受けると直ちに家族のもとに戻された。幼い子供たちを抱えてイェスゲイの家産の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成人してくると、モンゴルの第2代アンバガイ・カンの後裔で、キヤト氏のライバルだったタイチウト氏の人々はイェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど、辛酸をなめた。このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・カンや、モンゴル部内のテムジンの盟友(アンダ)であるジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちだった。

『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウン、チンバイ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。後にジェルメはジェベ、クビライ、スブタイの3人と共に「四狗」と呼ばれる四天王の1人となる。「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。ボオルチュやチウランも後にポロクル、ムカリと共に「四駿」と呼ばれる四天王の1人となる。「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。


諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。

あるとき、ジャムカの一族がテムジンの配下の家畜をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。

さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトグリルが追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命し、続いてジャガ・ガンボを頼ってトグリルがテムジンのもとに合流してケレイトの王位に復した。両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんで義父子の関係を結んで同盟し、協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った。この功績によりテムジンには金から「百人長」の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトグリルには「王」の称号が与えられ、オン・カンと称するにようなったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近いかたちで同盟していたことが分かる。

テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年には高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをフルンブイルに打ち破った。

1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。

しかし同年、オン・カンの長男イルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。


帝国の建設
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカをついにとらえて処刑した。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。

翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。チンギス・カンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。「チンギス」という語彙の由来については確実なことはわかっていないが、もともとモンゴル語ではなくテュルク語からきた外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズを語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。

チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

戦時においては、千人隊は1000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。


征服事業

チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。

この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。

こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。翌1214年、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。1215年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲、陥落させた。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・カンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。

このころ、かってナイマン部族連合の首長を受継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけこんで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた[要出典]。そこで、チンギスは腹心の将軍ジェベに2万の軍を先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。

1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった可能性を指摘する説もある)。その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンをモンゴル本土に留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達した。モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギスの親征軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者V.V. バルトリドは、その規模を15万から20万人と推計している。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊した。

ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。

一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーンを追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、大断事官シギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり(パルワーンの戦い)、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子モエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹トムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。

アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘も近年、モンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによって指摘されている[3]。

チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去った。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。チンギスは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。


最後の遠征
西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。

これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。

1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は三十万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。

翌1227年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西、河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平は拒否した。

ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去した。『元史』などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝たちはこの起輦谷へ葬られた。

彼は、死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国をつくり、その死後には世界最大の領土をもつ帝国に成長する基礎が残された。


陵墓と祭祀
チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたとみられているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの葬送の隊列は行く手に見かけた人々を全て殺して進んだという。

チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。

一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国の内モンゴル自治区に「成吉思汗陵」と称する施設があるが、これは毛沢東が延安に移動させた後、50年代に中国共産党が八白室を固定施設に変更して建設されたもので、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。

冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは、民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が、外国人に発掘されることに不満を持つ人が多いという。

2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。


チンギス・カンの子孫

モンゴル帝国モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。

13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。

チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しかあらわれなかった。モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。

こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。

2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。彼らによれば、現在までに彼のY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという([1]、[2])。


再評価
このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。

モンゴル人民共和国はスフバートル、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ドクソム等のモンゴル人民族主義者が作ったモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト連邦の赤軍の支援を受けて独立宣言させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だった。当初はリンチノら汎モンゴル主義者によって革命のためにチンギスカンを政治的利用させていた。

1960年代にはトゥムルオチル政治局員によってチンギス・カンの祝賀が行われ、切手も発行され、巨大な記念碑も建設された。トゥムルオチル政治局員とライバルだった当時の首相ツェデンバルはこれを機にトゥムルオチルを「中国寄り」であるということで追放させた。以後チンギス・カンは批判されていった。

モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生のモンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、崇拝を集めることになった。


宗室
『集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する四人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。


父母兄弟
父 イェスゲイ
母 ホエルン
次弟 ジョチ・カサル
三弟 カチウン
四弟 テムゲ・オッチギン
異母弟 ベルグテイ・ノヤン
『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベルテルという、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベクテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベクテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。
妹 テムルン

后妃
チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第一位、クランを第二位、イェスゲンを第三位、公主ハトゥン(كونجو خاتون Kūnjū Khātūn)こと岐国公主を第四位、イェスルン(イェスイ)を第五位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。


大オルド
ボルテ・フジン(孛兒台旭真太皇后) コンギラト部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)
忽魯渾皇后
闊里桀 皇后
脱忽思皇后
帖木倫皇后
亦憐真八剌皇后

第二オルド
クラン(忽蘭皇后) ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘
哈児八真皇后
亦乞剌真皇后
脱忽茶児皇后
也真妃子
也里忽禿妃子
察真妃子
哈剌真妃子

第三オルド
イェスルン(イェスイ 也速皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスゲンの妹
忽魯哈剌皇后
阿失倫皇后
禿児哈剌皇后
察児皇后
阿昔迷失皇后
完者忽都皇后
渾魯忽歹妃子
忽魯灰妃子
剌伯妃子
岐国公主 金朝皇帝・衛紹王の娘

第四オルド
イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの姉
忽答罕皇后
哈答皇后
斡者忽思皇后
燕里皇后
禿干妃子
完者妃子
金蓮妃子
完者台妃子
奴倫妃子
卯真妃子
鎖郎哈妃子
八不別及妃子
『集史』チンギス・ハン紀后妃表には五人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma )について記録されている。

ベクトゥトミシュ・フジン ケレイトのジャガ・ガンボの娘でトルイの妃ソルコクタニ・ベキらの姉妹。
グルベス・ハトゥン ナイマン部族連合の首長タヤン・ハンの第一ハトゥンだった人物。
チャク・ハトゥン 西夏皇帝の娘。
氏名不明 ナイマン出身。ジョルチダイの母

子女
『集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの諸子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料にもとづく)。


男子
ジョチ 母 ボルテ
チャガタイ 母 ボルテ
オゴデイ 母 ボルテ
トルイ 母 ボルテ
コルゲン(次六 闊列堅太子) 母 クラン
チャウル 母 イェスゲン
ジョルチダイ
オルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)
氏名不明 母 タタル部族出身の側室

女子
コアジン・ベキ - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ
チェチェゲン - 『元朝秘史』ではオイラト駙馬家の首長クドカ・ベキの息子イナルチに与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟トレルチに与えられたとされる
アラガイ・ベキ - オングト駙馬王家の首長アラクシ・テギン・クリの孫ボヤンカに嫁ぐ
トムルン - 同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟アルチ・ノヤンの長男チグウ・キュレゲンに嫁ぐ
アルタルン - ホエルンの弟タイチュ・キュレゲンの息子チャウル・セチェンに嫁ぐ
イル・アルタイ(アル・アルトゥン) - 母不詳。天山ウイグル王国に嫁ぐ。

脚注
^ ドルヂスレン・ツェー著,小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号(1967), p.1-16.
^ デリウン岳 Deli'ün Boltaq (迭里温孛勒荅中合)での出産についても主な資料は共通して述べる。『集史』ではدلون بولداق Dilūn Būldāq 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著,小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号(1967), p.1-16. 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社(1970)p.79-80.
^ 杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)94-95頁などを参照。

参考文献

史料
小沢重男『元朝秘史全釈』3巻、風間書房、1984年-1986年。
小沢重男『元朝秘史全釈続攷』3巻、風間書房、1987年-1989年。
小澤重男(訳)『元朝秘史』(岩波文庫)2巻、岩波書店、1997年。
小林高四郎(訳注)『蒙古の秘史』生活社、1940年。
小林高四郎(抄訳)『元史』(中国古典新書)明徳出版社、1972年。
那珂通世(訳注)『成吉思汗實録』大日本図書、1907年。
栗林均、确精扎布 編『『元朝秘史』モンゴル語全単語・語尾索引』(『東北アジア研究センター叢書』第4号) 東北大学東北アジア研究センター、2001年12月。
村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(『東洋文庫』全3巻)、平凡社、1970年-1976年。
C.M.ドーソン(佐口透訳注)『モンゴル帝国史』(『東洋文庫』全6巻)、平凡社、1968-1979年。

研究書・論文
杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年。
本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年。
村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年。

その他の著書
岩村忍『元朝秘史 チンギス=ハン実録』(中公新書)、中央公論社、1963年。
岡田英弘『チンギス・ハーン 将に将たるの戦略』、集英社、1986年。
岡田英弘『チンギス・ハーン』(朝日文庫)、朝日新聞社、1994年。
岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』(ちくま新書)、ちくま書房、2001年。
小澤重男『元朝秘史』(岩波新書)、岩波書店、1994年。
勝藤猛『草原の覇者・成吉思汗』(清水新書)、清水書院、1984年。
小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書)、岩波書店、1960年。
白石典之 『チンギス・カン 蒼き狼の実像』(中公新書)、中央公論新社 2006年
ジャン=ポール・ルー(杉山正明監修 田辺希久子訳)『チンギス・カンとモンゴル帝国』(知の再発見双書) 創元社、2003年。
杉山正明、北川誠一『大モンゴルの時代』(『世界の歴史』9)中央公論社、1997年。
杉山正明『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書)2巻、講談社、1996年。
ブラウヂン『大統率者ジンギス汗の謎』飯村穰訳注(叢文社、1982年)
イワニン『鉄木真帖木児用兵論』参謀本部訳(陸軍文庫、1895年)
松尾裕夫「ジンギス汗戦法の一考察(1)(2)」(『幹部学校記事』第210-211号、1971年)

チンギス・カンを描いた作品

小説
蒼き狼(井上靖)
地果て海尽きるまで(森村誠一)
チンギス・ハーンの一族(陳舜臣)
世界を創った男 チンギス・ハン(堺屋太一)
射雕英雄伝(金庸)
火と光の子(山中恒)…児童向け小説

映画
征服者(1955年、アメリカ 監督:ディック・パウエル、主演:ジョン・ウェイン)
ジンギス・カン(1965年、アメリカ/イギリス/西ドイツ/ユーゴスラビア合作 監督:ヘンリー・レヴィン、主演:オマー・シャリフ、スティーヴン・ボイド)
ジンギス・カン(1987年、中国 監督:ジャン・シャンチー、主演:ドリ・グアル)
チンギス・ハーン(1992年、モンゴル 監督ベグズィン・バルジンジャム、主演:アグワンツェレーギン・エンフタイワン)
蒼き狼 チンギス・ハーン(1998年、中国 監督:サイフ、マイリース、主演:テューメン)
蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜(2007年、日本 原作:森村誠一、監督:澤井信一郎、主演:反町隆史)
モンゴル(2007年、ドイツ/カザフスタン/ロシア/モンゴル合作 監督:セルゲイ・ボドロフ、主演:浅野忠信)
スタートレックII カーンの逆襲(Star Trek II: The Wrath of Khan、1982年公開。20世紀末アジアから中東を統一したカーン・ノニエン・シンという架空の人物が登場)

テレビドラマ
蒼き狼 成吉思汗の生涯(1980年、日本 原作:井上靖、主演:加藤剛)

漫画
チンギスハーン(横山光輝)
王狼、王狼伝(作:武論尊 画:三浦建太郎)
女神の赤い舌(塚脇永久)
カラ・キタイの娘、シルクロード(神坂智子、『姫君の塔』に収録)
ルパン三世(モンキー・パンチ、「ジンギスカンの埋蔵金」に登場)

ゲーム
蒼き狼と白き牝鹿シリーズ(光栄)
エイジ オブ エンパイアII(キャンペーンモードで登場)

音楽
ジンギスカン

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、チンギス・カン に関連するマルチメディアがあります。ボルジギン氏
イェスゲイ
モンゴル帝国
ハーン
チンギス統原理
義経=成吉思汗説
ジンギスカン (料理)
チンギスハーン国際空港
チンギス・カンの伝記史料
『元史』
『元朝秘史』
『集史』
『聖武親征録』
『世界征服者の歴史』

ノムヒョン前大統領


Edit Category 似顔絵 > 政治
盧武鉉ノムヒョンさんが亡くなった。

自宅近くの山からの滑落死。自殺であると言われている。

わたしは韓国の政治に疎いのでノムヒョンさんの仕事の一切については何もコメントできないが、小泉元首相とはそりが合わなかったように記憶している。

笑顔の可愛い人であった。

以下のノムヒョンさんについての記述はウィキペディアのもの。

かつては人権派弁護士だったとのこと。かなり苦労をして弁護士になられたようだ。

大統領になんかならないほうが幸せだったのかもしれない。

~★~★~★~

盧武鉉(ノ・ムヒョン、1946年9月1日(旧暦8月6日)- 2009年5月23日)は、大韓民国の政治家で、第16代の韓国大統領(2003年 -2008年)。本貫は光州盧氏。カトリック教徒で、洗礼名はユストゥス。権良淑(クォン・ヤンスク)夫人との間に1男1女。歴代で初めての日本統治時代を経験していない世代の大統領である。

略歴
1946年
9月1日(陰暦で8月6日)、慶尚南道金海市進永邑にて父・盧判石、母・李順禮の三男として生まれる。本貫は光州盧氏。
1966年、釜山商業高校卒。
1968年~1971年、陸軍で兵役に就く。乙支部隊(第12師団)で小銃長。上兵で除隊。
1973年
1月、権良淑と結婚。
1975年、司法試験合格(17期)。
1977年、大田地方法院判事。
1978年、弁護士開業。
1981年、釜林事件の弁護を担当。
1983年、来日。琵琶湖での日韓親善ヨットレースに参加。
1984年、公害問題研究所理事。
1987年
6月、大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導。
9月、大宇造船事件。労働争議調整法違反、葬式妨害罪で逮捕される。弁護士資格停止処分。
1988年
4月、第13代総選挙で当選(釜山東選挙区、統一民主党)。
「第五共和国における権力型不正調査特別委員会」委員。
1992年
3月、第14代総選挙で落選(釜山東選挙区、民主党)。
1995年
6月、釜山市長選で落選。
1996年
4月、第15代総選挙で落選(ソウル鍾路選挙区、統合民主党)。
1998年
7月、補欠選挙で当選(ソウル鍾路選挙区、新政治国民会議)。
2000年
4月13日、第16代総選挙で落選(釜山北・江西乙選挙区、新千年民主党)。
8月~2001年3月、海洋水産部長官。
2001年
新千年民主党常任顧問、最高委員。
2002年
4月27日、ソウル市の党内予備選(最終)で一位となり、盧武鉉が正式に新千年民主党の大統領候補に指名される。
12月19日、第16代大統領に当選(新千年民主党)。
2003年
2月25日、第16代大統領に就任。
6月6日~9日、国賓として日本を訪問。
9月、新千年民主党を離党。
2004年
3月12日、国会で大統領弾劾訴追案可決。大統領職務停止。
5月14日、憲法裁判所が大統領弾劾訴追案を却下。大統領職務復帰。
5月20日、ヨルリン・ウリ党に入党。主席党員。
12月17日、日韓首脳会談のため、鹿児島県指宿市を訪れる。
2005年
9月14日、国連総会本会議で演説。
11月12~19日、釜山APEC首脳会議。ホスト国として各国首脳と会談。
2007年
2月28日、ヨルリン・ウリ党を離党。
2008年
2月24日、大統領を退任。
11月21日、側近3人衆の1人チョン・ファサムが盧武鉉が大統領在任中の収賄で逮捕[1]。
2009年
5月23日、自宅近くで登山中に滑落し頭部を強打し死去[2]する。自宅に短文の遺書が残されていたことから、自殺とみられる。

来歴
慶尚南道金海市進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)の貧しい農家に生まれた。苦しい家計を思い一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で釜山商高に進学した。在学中に農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する[3]。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年司法試験に合格した。司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。租税関連の訴訟を専門としていたが、1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けた事が転機となり、人権派弁護士として活動を始めた。

1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当した。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったという[4]。

1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、その年の4月に行なわれた13代国会議員選挙で当選し、国会議員として政界入りした。国会の労働委員会では、李海瓚や李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。

1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合とし合同への参加を拒み、他の議員とともに1990年6月に改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる新民主連合党との野党統合運動を推進し、1991年9月に統合野党としての新・民主党を発足させた。

その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には14代国会議員選挙で落選。1995年に釜山市長選挙で落選。翌1996年の15代国会議員選挙も落選。1998年の補選にてようやく国会議員(ソウル市鐘路区[5]で当選。新政治国民会議)に復帰したが、2000年の16代国会議員選挙でソウル・鐘路区ではなく釜山市の北・江西乙選挙区から出馬(新千年民主党)し、再度落選する。しかし、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のサポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された。

2000年8月、盧武鉉は金大中政権の海洋水産部の長官に任命された。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。

2008年12月4日、実兄の盧建平が盧武鉉の高校の同窓生達と共謀し、盧武鉉が大統領在任中の2006年2月に世宗証券(現NH投資証券)が農協に売却されるよう農協会長に頼み、売却が実現すると世宗キャピタル(世宗証券大株主)の社長から30億ウォン(約1億8800万円)を受け取ったとして逮捕された[6][7]。

2009年5月23日、登山中に滑落し、頭部に重傷を負って病院に運ばれたが、死亡した[8]。同日、記者会見した前大統領の側近、文在寅弁護士は、前大統領が家族に短い遺書を残していた事を明かした上で、登山中に自ら飛び降りたようだと語った。[9]


大統領選挙
2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカの予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳、金槿泰、李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩主義陣営の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。

全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山、光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した[10]。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。

しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」[11]は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。

このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎打ちとなった。

11月20日、在韓米軍の軍事法廷は6月に女子中学生を交通事故死させた米兵に、無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)の下に行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はソウルや各地の都市で繰り返しキャンドルデモを扇動し、メディアもそれを報じて反米機運を増幅した。米国は11月27日にハバード駐韓大使とラポート在韓米軍司令官が謝罪し、さらにブッシュ大統領の謝罪声明を発表して事態の沈静化を図ったが、デモの主催者たちはこれを欺瞞とし、デモを続けた[12]。投票日を前に発生したこの事件は、有権者の投票行動に少なくない影響を与えた(→議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件も参照)。

2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始した。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた[13]。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。

投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている[14]。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた。


大統領職

就任

2003年10月、ブッシュ大統領と会談中の盧武鉉盧武鉉は相対的に高い国民の支持を得て大統領職に就任したが、与党の新千年民主党は国会では少数派だった。国会ではハンナラ党が過半数を占めており、選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した。さらに与党の新千年民主党では、全羅道を基盤とする金大中派と盧武鉉を中心とする主流派との間で与党内抗争が激化し、主流派が「ヨルリン・ウリ党」を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は苦境に立たされた。

与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上した。経済運営も難航した。イラクに韓国軍を派遣したことが支持者離れを引き起こし、支持率は急落した。起死回生を図るべく、盧武鉉は国民投票による再信任を提案するが、各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。盧武鉉は与野党代表と会合を行い「われわれが昨年の大統領選挙で使った不法資金の規模がハンナラ党の10分の1を超えれば、大統領職を退き、政界を引退する」と述べたが[15]、調査が進んで8分の1に迫ると、敵対的なメディアでの主観的な計算の問題としてその数字に異議を唱えた。

イラク追加派兵問題をめぐり、外交通商部と国防部の「韓米同盟派」と、大統領府・国家安全保障会議(NSC)を中心とした「自主派」が軋轢を起こした。2004年1月、盧武鉉は外交通商部幹部の失言と監督責任を理由に尹永寛外交通商部長官を更迭し[16]、後任に潘基文を任命した。


弾劾
詳細は盧武鉉韓国大統領弾劾訴追を参照

総選挙を控えた2004年3月9日、野党であるハンナラ党、新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議した。3月12日、投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時国務総理(首相)だった高建が大統領職務代行を務めた。

しかし、党利党略から大統領を弾劾し、国政を混乱させた野党に世論が反発、総選挙でのウリ党の地滑り的勝利に繋がり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。結果として、盧武鉉は政治基盤を大幅に強化し、政策を推進する体制を整えることとなった。


改革
盧武鉉は自らの政権を「参与政府」(国民が政治に参与する政府)と称し、より進歩的かつ理念的な改革を指向した。「ノサモ」などのインターネットの力を借りて政権の座に就いたこともあり、ホームページを通して積極的な情報公開を行うだけでなく、重大な政策論争に行き当たるたびに、国民に直接語りかける機会を設け、ネットを利用したポピュリズムを形成して、既存の保守勢力の抵抗を突破しようとした[17]。

詳細は#内政を参照

 

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

大連立論争
与党のウリ党はすべての補選で敗北を喫した。2005年4月30日の補選も例外でなく、ウリ党は6選挙区すべてで議席を獲得できず、惨敗を喫した。不人気に直面した盧武鉉は、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。国民一般の世論とかけ離れたこの提案は、国論を沸騰させた。憲法学者は違憲の疑いを指摘し、ハンナラ党は繰り返し連立政権の交渉を辞退した。与党議員の3分の2が連立政権に反対したが、盧武鉉はこの提案に執着した。

2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった[18]。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。


レームダック
2006年5月31日に行われた統一地方選挙では、盧武鉉政権の経済無策への批判や朴槿恵ハンナラ党代表襲撃事件も重なって、与党のウリ党は歴史的惨敗を喫した。事実上大統領及び政府与党への信任選挙であったため大統領の責任論が浮上したが、「一度や二度の選挙結果に惑わされるようでは民主主義とはいえない」と述べ、与野党双方からさらに批判が巻き起こった。この選挙結果により以前から言われていた「レームダック(死に体)政権」のイメージがますます強くなってしまい、支持率は20%を切るようになった[19]。

2006年8月、盧武鉉は任期切れとなった尹永哲憲法裁判所所長の後任に、全孝淑憲法裁判所裁判官を内定した。しかし任命手続きに法的な瑕疵があったことを理由に国会が同意せず、憲法裁判所所長の座が空位となった。

2006年10月、国家情報院は386世代民主化闘士が北朝鮮と通じてスパイ活動をしたとして、民主労働党の幹部などを国家保安法違反で逮捕した。しかし、捜査の指揮を執っていた金昇圭国家情報院院長が突如辞意を表明し、その後情報機関の長としては異例にも朝鮮日報へのインタビューに応じて捜査内容を語るという事件が発生した。 同月、尹光雄国防部長官が辞任した。宥和政策に対する批判の高まりから李鍾奭統一部長官も辞意を表明し、国連事務総長へ転出するため辞任した潘基文外交通商部長官と合わせて、外交・安保の責任者がすべて入れ替わることとなった。

2006年11月、盧武鉉は憲法裁判所所長の指名を撤回した。盧武鉉は議場を占拠して任命同意案の採決を阻んだ国会を非難するとともに、指名撤回を「屈服」と表して、任期を終えることのできない最初の大統領にはなりたくないと述べた[20]。

2006年12月、盧武鉉は民主平和統一諮問会議の席上で、韓国の国防力に自信を示すと共に、在韓米軍基地移転や戦時作戦統制権の返還に反対する退役軍人に対し「米国の後ろに隠れて『兄貴、兄貴のパワーだけ信じるよ』とばかりしてはいられない。一度は度胸をみせるべきじゃないか」「自国軍隊の作戦統制さえきちんとできない軍隊を作っておいて、『私は国防長官です』、『私は参謀総長です』と威張りたいというのか」と反論した[21]。


党争
度重なる補選の敗北と次期大統領選挙を見据えて、与党ウリ党では金槿泰を中心に、かつて袂を分かった民主党との再統合を模索する動きが活発化した(統合新党論)。盧武鉉は再統合を地域主義への回帰であるとして非難し、長文の手紙を発して党員への呼びかけを行った。また次期大統領選挙の有力候補であり、進歩主義陣営結集の核と目された高建を激しく攻撃し、大統領選挙への出馬辞退に追い込んだ。

ウリ党の親盧勢力も、盧武鉉の意を受けて党を死守するとの立場を見せた。金槿泰らが党の進路を決める全党大会を前に、外部人材の受け入れを妨げるとして基幹党員制の撤廃に踏み切ると、改正手続きに不備があると仮処分を申し立て、法院はこれを認めた。ここに至り、ウリ党の現職議員が全党大会を待たずに脱党を始めた。盧武鉉は党の現状を知り、青瓦台に親盧勢力を招いて党の分裂を防ぐように方針転換を促した結果、党憲の改正は改めて議決されたが、現職議員の脱党を完全に押し留めるには至らなかった[22]。

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

内政
金大中前大統領の後継者として、「左派新自由主義」路線を推進した。


経済政策
アジア通貨危機以来の新自由主義政策を継承した。


社会政策
左派が課題としてきた問題に取り組み、過去の軍事政権下における人権抑圧について検証を進めた。

朝鮮日報、東亜日報という既存の保守系メディアとは鋭く対立し、その力を殺ぐべく言論改革を唱えた。これは後に大手新聞社の発行部数を抑制し、政権に融和的な中小言論を経済的に支援する「新聞法」や、報道被害に訴訟で対抗する道を拓く「言論仲裁法」といった言論改革法の成立に結びついた。北朝鮮の工作員から反米活動の大衆化や金泳三元大統領と黄長元北朝鮮労働党秘書に圧力をかけることなどの指令を受けていた南北共同宣言実践連帯[23]などの親北朝鮮団体に政府補助金を支援した[24]。


首都移転計画
最大の公約である地域主義を解消するべく、極度に人口が集中するソウル一極集中を正すために首都移転計画を進めたが、2004年10月21日に憲法裁判所が「ソウルは朝鮮王朝以来の慣習的首都」として「違憲」と判断、修正を余儀なくされた[25]。


歴史認識問題
盧武鉉は歴史の見直しにも強い意欲をもって臨んだ。民主化以降の文民政権は、政権の正当性を確立するために現代史の見直しや清算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張した。韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。また、これらの法律を総括するために、植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた[26]。

2006年3月20日、全斗煥元大統領ら170人の叙勲を取り消す[27]。


外交
対北朝鮮政策においては太陽政策を継承し、北朝鮮に対しては宥和的な姿勢で臨んだ。独自外交路線を推し進め、米韓同盟を見直しつつ、日本とは一定の距離を置いた。


日本
日本との主な外交問題については日本海呼称問題、竹島問題、靖国神社参拝問題、歴史教科書問題を参照

就任当初は「未来志向」を謳い、日本と良好な関係を結ぶと期待された。初めての訪日が、顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり批判を浴びたが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」[28]と主張して、訪日の重要性を強調した。日韓首脳が頻繁に会談し、意見交換する必要があるとの認識から、当時の日本の首相である小泉純一郎との間でシャトル首脳会談を推進することで合意し、相互を往復して会談を重ねた。

しかし小泉は、従来から日本と韓国の間に横たわり、双方が必要に応じて棚上げしてきた問題について、盧武鉉に何も与えなかった。人権派弁護士として軍部独裁に反対する学生とともに歩み、文民政権の正当性を確立するために歴史の清算を掲げる盧武鉉のこだわりを、小泉は理解しなかった。盧武鉉も、冷徹なリアリストである小泉を読み違えた。期待を裏切られたと感じた盧武鉉は失望を深めた[29]。

2005年3月、盧武鉉は三・一節の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵をきった。演説への論評を求められた小泉は、盧武鉉の発言は国内向けと応じて取り合わなかった[30]。両者の亀裂は決定的なものとなり、盧武鉉は「外交戦争も辞さない」という強い表現で日本への批判を続け、最終的には小泉の靖国神社参拝を理由として首脳会談を中止した。日本の左派系大手マスコミは日韓関係の悪化の責を小泉に求めたが、小泉はこれを容れず、また北朝鮮による拉致が明らかになることで変化した日本の世論も、小泉を支持した。

2006年4月25日、盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた[31]。


2006年のAPEC首脳会議時の日米韓3か国会議にて、ブッシュ前大統領、安倍晋三元内閣総理大臣と。2006年7月5日には竹島(韓国名:独島)周辺の日本の排他的経済水域及び領海内で、韓国船が日本の抗議を無視し海洋調査を行った。日本が海洋調査を実施しようとした際には「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」[32]と猛反発したことから、一連の動きは露骨な対決姿勢の表れとみなされ、日本との外交関係は更に悪化した。同日に北朝鮮が行ったミサイル乱射に対しても両国は連携できず、国連安保理での制裁議論に際して、日本は韓国に対する配慮を行わなかった。 また、2006年4月21日付のワシントンポストにおいて、盧武鉉政権が海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するために日本政府への具体的な圧力として、『島根県内の防衛庁(現防衛省)施設』に対する軍事攻撃を検討していた事が明らかとなり、仮に攻撃が行なわれたとして自衛隊との軍事的衝突はおろか、国際的な非難と信用の失墜及び最悪経済制裁を受けていた可能性もあっただけに、韓国国内からも盧武鉉政権の独断ぶりに憂慮の声が強く挙がった[33]。

2006年10月9日、小泉の後を受けて首相に就任した安倍晋三との間で、約11カ月ぶりに日韓首脳会談が行われた。しかし盧武鉉は同日に北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった[34]。

2007年1月、盧武鉉が前年ハノイで行われた安倍晋三との会談の席で、日本海呼称問題の解決のために日本海(韓国名東海)を、日韓どちらの名称でもなく新しく「平和の海」と呼称するよう提案し、即座に拒否された事が報じられた。この提案は政府内の調整を経ておらず、国際社会に「東海」への改名を働きかけている韓国官民の努力を無にするものであると保守派・右派を中心に非難された[35]。


米国
盧武鉉は大統領選挙の前から反米主義で知られ、それは選挙戦の間も不利な条件とはならなかった。在韓米軍による女子中学生死亡事故と、北朝鮮に対するブッシュ大統領の強硬姿勢によって高まった反米機運が、2002年には一般的だった。盧武鉉は大統領に当選する前「反米だからどうだと言うのだ?」と述べ、それは盧武鉉への支持に繋がると同時に、多くの国民に彼が米国との関係に独立した一線を導くと信じさせた[36]。


2003年5月のホワイトハウス訪問時の、ブッシュ大統領と盧武鉉大統領。しかし大統領就任後、この様な見解が負債として彼に圧し掛かった。韓国の保守派と米国は疑念を抱き、反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を極左として非難した。盧武鉉はこの否定的なイメージを覆すべく、初訪米の際に「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」[37]と発言したが、米国からの支持は得られず、発言自体があまりにも自虐的かつ国家的自尊心を侮辱するものとして、国民に受け取られた。そしてこの「転向」はマスコミ向けのポーズをする為だけに米国を訪問しないと述べていた大統領選挙戦中の発言と一致せず、一層警戒される事となった。

盧武鉉が米国のイラク戦争を支持して軍を派兵する事を決めた時、多くの国民は裏切られたと感じた。あくまでも平和維持任務であることを説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。

米国との関係は、北朝鮮の核危機が進むにつれ悪化した。韓国の宥和政策は米国の強硬政策と両立せず、米国は繰り返し韓国による北朝鮮への経済援助が、北朝鮮の頑なな態度を強化させて、交渉の為の協調を傷つけると主張した。

韓国が北東アジアのバランサーの役目を果たすという盧武鉉の宣言は、さらに米国を苛立たせた。周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築くという基本方針は、米国が紛争当事者になったときに韓国は中立的立場を維持する可能性があると受け取られた。リチャード・ローレス国防次官補は露骨に不快感を示し、米韓同盟の役割に疑問を呈した[38]。

2006年3月、韓国は米国との自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を開始すると発表した。盧武鉉の元経済政策助言者を含む多くは、政府があまりにも拙速であり韓国経済に否定的な影響を与えると懸念を表明した。その様な反対にも関わらず、盧武鉉は繰り返し自由貿易協定を支持し、それが韓国経済に良い影響を与えると主張している。


2006年9月14日のホワイトハウス訪問時の、ブッシュ大統領と盧武鉉大統領。米国との伝統的な関係が変化する過程で、戦時作戦統制権[39]の移譲問題が浮上した。盧武鉉はこの問題を「自主国防」という視点で捉えて積極的に推進した。米国は当初、韓国にその能力が整っていないと消極的だったが、盧武鉉が「作戦統制権こそ自主国防の核心、自主国防こそが主権国家の花」と政治テーマに掲げて自国のメディアに喧伝する[40]につれ、積極姿勢に転じた。これは、韓国が自国の防衛に主要な責任を持つことは米国にとって損とならず、北朝鮮の侵攻を抑止するために朝鮮半島に固定された在韓米軍を抽出して、他の目的に再活用し得ると意識されたことが大きいとされる。 冷却化する米韓同盟に危機感を覚えた歴代の国防長官や退役軍人などの一部が、尹光雄国防長官に戦時作戦統制権の返還推進を中止することを求めたが、この意見は容れられず、10月の米韓定例安保協議会(SCM)で、移譲が正式に決定した。これにより、現在まで韓国の安全保障を担保してきた米韓連合司令部は近い将来に解体され、韓国防衛における在韓米軍は副次的地位に引き下げられることとなった。

2006年9月14日(日本時間15日0時)、盧武鉉は欧州歴訪についで米国を訪問し、ブッシュ大統領と6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴する様に米国のメディアの扱いは冷淡であり、同日付のニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された[41]。また、会談後の共同文書の発表に至らず、一つの時代の終わりと、同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめる事となったと評す者もいた[42]。


北朝鮮
北朝鮮に対しては金大中の太陽政策を引き継ぎ、関与政策と包容政策を継続している。2004年11月にはロサンゼルスで「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べ[43]、北朝鮮の主張に理解を示した。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強める米国と意見の違いを見せた。

このような盧武鉉の配慮にも関わらず、北朝鮮は2006年7月5日、ミサイルを発射し、盧武鉉の立場を苦しいものとした。しかし、7月9日、政府見解として「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に大きな隔たりのある見解を発表し[44]、韓国国内からも批判を受けた(当時、着弾海域付近では韓国漁船が操業していた)。日本政府が国連安全保障理事会へ北朝鮮への制裁決議案を提出した事については強い警戒感を示し、包容政策を継続する韓国政府と、制裁論に向かう日本政府との間で明白なズレが生じた。

7月13日には第19次南北閣僚級会談が決裂。「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という恩を仇で返される言葉をもらい、宥和政策の行き詰まりを示す出来事となった。それでも8月15日の第61周年光復節では「決して容易なことではない」としながらも、北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を許すと演説し[45]、宥和的姿勢を維持した。そして同時期に発生した北朝鮮の水害に対する援助として、米、セメント、重機などの支援を行った。

10月9日、北朝鮮は「核実験実施」を発表した。それを受けて国連安全保障理事会は2006年10月15日に制裁決議を採択した。一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、アメリカから求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている。


中国
中国との主な外交問題については東北工程、蘇岩礁を参照

「北東アジアバランサー論」に沿って、日本や伝統的な同盟国である米国との関係を見直しながら、中国との接近を図っている。北朝鮮の核開発問題では宥和的姿勢で協調し、また靖国神社問題や歴史教科書問題では暗黙の共闘を演じた。2006年11月には、自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を始めることで合意している。

中国の推進する東北工程では高句麗を古代中国の地方政権と見なし、これを自国の歴史の一部であるとする韓国側と意見の相違がある。2004年には、中国外交部がこれまで韓国の歴史として紹介していた高句麗の記述をホームページから削除し、韓国政府がこれに抗議するという騒ぎが起こった[46]。しかしその後、両国外交部の間で「民間レベルの学術討論で解決していき、政治問題としない」という口頭の合意を交わして関係の修復を図った。この合意は2006年10月に盧武鉉が中国を訪問した際にも、胡錦涛国家主席との間で再確認された[47]。


大統領退任後
退任後は故郷に戻り、金海市の生家近くに新居を建設した(盧武鉉タウン)。李明博政権の不人気で、インターネット上での再評価が進んでいる。

一方で、国庫補助金で地熱を利用した冷暖房設備を設置していたことが報道され、非難の的となっている。[48]

退任後、盧武鉉の側近・親族が相次いで逮捕された。2008年11月、盧武鉉政権の側近の一人が贈賄容疑で逮捕された。また、盧武鉉の兄盧建平が証券会社「世宗証券」の買収を韓国農協幹部に働きかけ、約20億ウォン(約1億3000万円)相当の見返りを得ていた疑惑が浮上し[49]、後に逮捕された。兄の盧建平は、逮捕されるまでは「ポンハ大君」「大先生」「慶南大統領」と呼ばれていた[50]。2004年に朴淵次泰光実業会長に対して慶尚南道知事補欠選挙に出馬したヨルリン・ウリ党候補を全面的に支援するよう要請し、8億ウォン(約5700万円)を出させた[50]。2005年の4・30補欠選挙では、5億ウォン(約3600万円)を同じように出させた[50]。2006年1月には農協による世宗証券の買収にも介入し、30億ウォン(約2億2000万円)近い裏金を自らの懐に入れたことも分かっている[50]。

さらに盧武鉉自身も捜査対象となり、2009年4月30日には韓国最高検察庁が合計600万ドル(約6億円)を超える不正資金疑惑について、包括収賄罪の容疑で本人に事情聴取を行なった[51]。盧武鉉支持派の人々は一連の捜査を李明博政権下でおきたスキャンダルに対する煙幕だとして抗議している。

その後、盧の逮捕も近いのではと思われていた矢先、同年5月23日早朝、慶尚南道の金海市郊外の烽下村にある自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして3時間後に死去すると言う最悪な結末を迎えた。 これに際して盧が書いたと思われる遺書が発見されており、「これまで非常につらかった(以下略)」と、上記の贈賄疑惑に関する捜査以降辛い心境であった事が遺書に書かれていたと言う。[52]


その他
尊敬する人物はリンカーン、金九。リンカーンについては著書もある(後述)。趣味はヨット。大統領就任以前、スクールで学ぶために来日したこともある。ただし、ヨットはブルジョア趣味なので、韓国で公にされることはない。
盧武鉉政権には運動家出身で実務経験が少ない者が多いことを理由として(事実行政実務の経験のあったのは首相を務めた高建など極少数だった)、保守層を中心に「アマチュア政権」「NGO(非政府組織)政権」と批判する声もある。
ハンギョレ(新聞)の創刊当時の株主であり、1次、2次増資の際も出資した[53]。ハンギョレに対しては、新聞法により流通や配達の支援を行い、また政府からの事業資金の援助も行っている。ハンギョレ以外の新聞社に対しては、マスメディアの健全化を建前として攻撃的な姿勢を貫き、この影響で東亜日報元名誉会長の夫人は自殺に追い込まれた。
「盧」(ノ)という音と綴りが英語圏で否定的なニュアンスを持つことから、英文表記では"Roh"としている。また、北朝鮮では語頭のリウル(R)を発音するため、「ロ・ムヒョン」と呼ばれる。
2003年6月6日から9日まで権良淑夫人とともに国賓として日本を訪問。この際、筑紫哲也司会のTBSテレビの特別番組に出演し、在日韓国人を含む日本の一般市民と交流を持っている。その時「在日として日本の地域社会に貢献していきたい」と述べた在日の高校生に「現地の文化や体制に適応してその社会に寄与することは非常に重要なこと」と述べた[54]。
2005年2月4日、病気で瞼が垂れ下がって目が開けにくくなる病気、眼瞼下垂の手術を行い、二重瞼になった。続いて夫人や側近の経済補佐官、後援会長も手術した。
2007年1月23日、国民向けの特別演説を行ったが、準備不足から演説の中断や読み飛ばしを引き起こした。しかも大幅な省略にも関わらず、事前に予定した40分の放送枠を大幅に超過してしまい、後続の人気番組の開始時間を遅延させてしまった。

発言
大統領就任後の発言集。


2006年
1月25日…「韓国国民感情考慮すべき」今後も靖国参拝の中止を求めていく考え
1月25日…「対北圧迫・崩壊の解決策ならば韓米間に隔たり生じる」
1月28日…米国の対北圧力に公式に警告
3月1日…「日本は人類の道理に従い行動し国際社会の信頼を確保すべき」
4月14日…「韓国人は失敗したことがない」
4月29日…「北の核開発は防御のためであって、先制攻撃用ではない」
5月3日…「日本は中国のマネをして天皇をつくった」
5月9日…「北朝鮮に大幅な譲歩をしたい…いつどこでどのような話でも構わないので会って話をしよう」
5月8日…「韓国の経済人たちは無から有を創造した」
5月14日…「中日間で自分を守るため強い軍事力必要」
5月14日…ドバイの経済人との夕食懇談会の席で、ドバイの都市建設を賞賛しながら「世界中からたくさんの人が訪れる万里の長城やピラミッドも、結局は戦争による抑圧と搾取の結果として積み上げられた、他人の苦痛を担保にした不道徳な遺跡といえる」[55]
5月16日…アナン事務総長の前で日本を正面から批判「独島は日本が日露戦争当時に強制的に占領したもの」
5月18日…「相手を尊重し譲歩することで合意を実現する寛容の文化を育てるべき」
5月19日…「優越感と劣等感が混在している日本の行動が、北東アジア秩序に不安要因になっている」
5月29日…「北朝鮮が核を開発するのは、先制攻撃用ではなく防御用」
6月2日…「選挙に負けたのかもしれないが、私には重要なことでない」
6月12日…(統一地方選での責任問題に対して)「私が平常心を保つことで、国民が安心するのではないか」[56]
6月16日…「南北統一は連邦制よりも経済・文化から」
6月22日…昼食会に招いた海洋警察庁の警察官を激励して「日本が挑発できない国防力を持っている」「東海で突発事態の時に対応できる程度の戦力をそろえる」
6月25日…「ユギオが来ると日本の侵略思い出す」「南北関係では安全と平和が最優先」
7月11日…「日本の態度は、北東アジアの平和に尋常でない事態を招く可能性がある」
7月11日…「ミサイル発射は米国に譲歩を要求する政治的行為」
7月11日…(米国の金融制裁措置に対して)「偽ドルを製造した証拠を出さないで、帳簿を要求するようなもの」
7月11日…(北朝鮮への態度について)「米国は友邦なので厳しく責めることは出来ないが、日本とは対決しなければならない」[57]
7月13日…「親日派の財産調査は遅かったが幸いだ」[58]
7月15日…「米国が韓国を北東アジアの平和を担うポストにつけてくれれば助けとなるだろう」
7月19日…(米日の追加制裁の動きに対して)「過度に対応し不必要な緊張と対決局面を作り出す一部の動きは問題解決の役に立たない。」[59]
7月25日…「米国が失敗したと言ってはいけないか?」
8月6日…「私を無視するな、私が復活する日が来ないとも限らない」
8月9日…「日本だけをモデルに成長していくわけにいかない」
8月9日…「戦時作戦統制権の移譲時期は2009~2012年の間、今すぐでも構わない」
8月10日…「アメリカの言うとおりに、韓国大統領が“はい、はい”というのを韓国国民は望んでいるだろうか」
8月13日…「私が何を間違ったのか分からない」[60]
8月13日…「個人的にブッシュ大統領は、私のことが好きだ」[61]
8月13日…「アメリカが北朝鮮を見る視覚は文明が野蛮を見る視覚のよう」[62]
8月15日…「米軍の統制権行使は違憲」[63]
8月27日…(保守系メディアが大統領を批判することに対し)「メディアを先進国水準にすべく今頭を悩ませている」[64]
8月29日…「(就任後)3年半になったが私の記憶には世の中が騒がしかったという記憶しか残ってない」[65]
9月26日…(2つの人工衛星の成功に際して)「地球を征服したような快感がある」[66]
9月28日…「6カ国協議は、アメリカの金融制裁が原因で中断している」
10月9日…(太陽政策に対して)「見直さなければならない」(後に撤回)
10月10日…(北朝鮮による核実験に対して)「こんな小さな問題」[67]
11月20日…(北朝鮮による南侵に対し)「われわれはかつて植民地支配を受け、その後内戦まで行うという波乱の道を歩んできた」[68]
12月7日… 「北朝鮮が負け戦を仕掛けるはずはない」[69]
12月22日…(軍関係者の統制権委譲への反発に対し)「電話機も車も船もうまく作れるのに、なぜ作戦統制権だけ行使できないのか」[70]
12月22日… 「最近、わたしは妻と2日に1度は口げんかをする。妻が新聞を読めと言うんだ。」[71]
12月22日…「(高首相起用は)むしろ私と盧政権に参加した人が仲間外れになるような体制になった」[72]
12月24日…「(徴兵制度に対して)人間を腐らせる」[73]

2007年
1月3日…「(自分に対する)国民の評価は良くあってほしいという気持ちがあった。難しいことだと思っていたが、昨年中に完全に放棄してしまった」[74]
1月4日…「侮辱するのか。言葉を選べ」(李龍得韓国労総委員長に)[75]
1月11日…「憲法改正に必要ならば離党も検討」[76]
2月28日…「北朝鮮が攻撃を受けてもいないのに、核兵器を先制使用すると考えるのは精神病患者だけ」[77]
2月28日…「税金が高いなら、安いところに引っ越せばよい」[78]
3月1日…「韓国は歴史的に他国に害を及ぼしたことない」[79]
3月2日…「62年ぶりに作戦統制権が韓国軍の手に戻るのは韓国軍が地道に実力を向上させてきた結果であり、韓国軍の地位を立て直すこと」[80]
3月13日…「利益にならないFTAは締結しない」[81]
3月13日…「失敗はしたが政策は遂行した大統領として記憶してもらえないか」[82]
3月14日…「何よりも歴史的真実を尊重し、これを支える実践が重要だ」[83]
3月20日…「離党しようが入党しようがいつも通りの信念をもって行うべきで、選挙を控え党内選挙で不利だからと離党するのは、基本的に民主主義の原則にそぐわない」[84]
3月25日…「北朝鮮をわたしたちの敵とし、その心痛にいつまで耐えようというのか」「朝鮮戦争は国民たちには忘れることのできない出来事だが、昔のことにこだわるあまり開くべき未来への道を閉ざそうというのでは損害を被るだけ」「北朝鮮に厳しく対処していないと言うが、この程度の支援は必ずしなければならないもの。それは未来に対する投資だ」[85]
4月15日…「日本が前向きに解決すると信じて争点化しないようにしてきたが、期待は外れた」[86]
4月15日…「日本がこれまで示してきた過去の歴史に対する反省の意をそのまま受け入れるとしても、これに相応する実践が伴わなければ真剣さを疑われることになる」[87]
4月15日…「北東アジアの平和・安保のメカニズムを新たに作るために米国の役割が強調されなければならない」[88]
4月17日…「なぜ政治的負担がほとんどないこの時期にかたくなに憲法改正を拒み、実質的に多くの負担が予想される時期に持ち越そうとするのか、まったく理解ができない」「わたしは韓国社会の公論が政治を殺していると考える」[89]
4月19日…「成熟した民主主義のためには寛容と責任の政治が必要だ」「壬辰倭乱(文禄慶長の役)以来数百年にわたる挫折の歴史を乗り越え、民衆が初めて勝ち取った勝利の歴史だ」[90]
4月29日…「(留保の決定は)大変残念なことであり、今でも憲法改正を支持している人、支持世論作りに努力してくれた人に面目ない」「わたしはこうして整理をつけることも、立派な妥協の政治だと考えている」「政治は死にゆこうとしている。この問題をめぐる政界の態度を見ていると、大義などはなく、ただ政略と打算だけだった」[91]
5月2日…「なぜ『ハンナラ党の惨敗』といわれるのか。むしろ開かれたウリ党の実質的な敗北とも言える面が見過ごされているのではないか」[92]
5月15日…「国と民族の未来に向け大きな一歩を踏み出す歴史的な事件」[93]
5月17日…「忍耐強く着実に信頼を築いてきた結果。歴史が再び平和に向け大きな歩みを踏み出す重要な契機となるだろう」[94]
5月18日…「今でも政治に地域主義が残っていることは隠せない事実」「光州市民が5年前に嶺南(慶尚道)出身の自分を大統領に選ぶという立派な決断をした」[95]
5月24日…和合と共生を実践してきた仏教界が先進韓国作りに中心的な役割を果たすものと信じている。[96]
5月25日…「世宗大王時代の15世紀前半、世界で約50の科学発明があった。韓国が22、中国が3、日本が1~2だった。国力がどの時代よりも強く、北東アジアの平和が維持できた」[97]
5月25日…「いまだに北東アジアでは軍備競争(の現実)があり、われわれも傍観しているわけにはいかない」[98]
5月25日…「本当にこんな良い船が我が国に必要なのか、つくづく考えてみた」「我が国はいつまでも北朝鮮といがみ合ってばかりいるべきではないのでは」[99]
5月29日…「何か事件が起こるとスケープゴートを要求する風土が心配だ。事が起きるたびに辞任していたら、誰がやりとげられるのか」[100]
5月29日…「メディアが法外な特権を主張し続けるならば、政府としても原理原則通りにする用意がある」[101]
5月30日…「南北は統一に向かうまで、競争や対決を乗り越え手を差し伸べ、寛大に耐えてお互い譲歩しながら協力し続ける必要がある」[102]
5月31日…「北朝鮮に対し包容政策を行っているが、北朝鮮に要求すべきことは要求する必要がある」[103]
6月2日…「7%の経済成長を叫ぶ人々が、無理な浮揚策を用いて経済危機でも招くのではないかと不安」「まともな人にどんな注射をして何の薬を飲ませようとするのか、不安にはならないか」「ぱっとしない政権がもたつこうとも、大きな危機さえなければ韓国経済はうまく回っていくだろう」[104]
6月2日…「趙己淑先生も一度討論してみたいと思われるでしょう。わたしもそうなんですが、これを憲法のやつが邪魔するんです」「精神状態がまともな人が、いったい大運河の話(李明博候補の公約を指す)など真に受けるだろうか」[105]
6月2日…「(自身のこれまでの歩みは)全部本に書いてあるので、そこから盗用するのだろう」「列車フェリー計画など(自身の政策である)物流ハブに比べれば、何の意味も持たない」[106]
6月2日…「自分には人を見る目がなかったのではないか…」「(民主労働党を指して)創造的な政策立案能力に欠ける」「百歩譲ってほかの(与党圏の)候補者らとは過去の縁もあるが、孫鶴圭氏がなぜ与党圏なのか。これは政府に対する侮辱」「(自分自身を指して)課長級大統領のときもあったが、世界的大統領だと思う。国民参加政府の国家発展戦略は、21世紀型国家戦略の模範」「強者が主導するとおりに従えば、すべてが良くなるという考えが基本にある。保守も連帯するが、ひそかに癒着する」[107]
6月2日…「(ハンナラ党政権が誕生する可能性について)いったいどんなことが起こるのか、考えただけで恐ろしい」[108]
6月2日…「(李明博氏の全国大運河構想について)まともな者がそんなことには投資するものか」「(朴槿恵氏を指して)韓国の指導者が独裁者の娘などといわれては困る」[109]
6月3日…「なぜ良心に欠けた報道が続くのか。記者室がある日本は報道の自由度ランキングで51位、同じく米国は53位なのに対して、参与政府は31位だという事実を、何故報道しないのか」[110]
6月4日…「アジアがともに反映していくためにはお互いの多様性を尊重し、これを受け入れるという開放的な姿勢が必要」[111]
6月5日…「大統領の政治活動を禁じる国は世界中どこにもない」「総体的・総括的に政府をそしり、盧武鉉政権が国を台無しにしたと発言するから、ハンナラ党が政権を取ればどうなのかと批判した」[112]
6月6日…「親日派の反民族行為の真相を明らかにして歴史の正義を正し、先に旅立った人々の恨みをはらすことにも最善を尽くす」「子どもたちが国と民族に献身することを当然で誇らしいことと考えるよう導いていかなければならない」「自らを守れる力をつけ、独裁がよみがえることは想像もできないほどの、世界から認められる民主人権国家になった」[113]
6月9日…「(盧大統領の演説内容に対し中央選挙管理委員会が公職選挙法第9条に定められた公務員中立義務条項違反と決定したことについて)どこまでが選挙運動で、どこまでが選挙中立、政治中立なのか。あいまいな構成要件は違憲だ」「(大統領は政治活動を行っても構わない、大統領の政治活動は例外とすると)公務員法でそのように定めておきながら、選挙には中立であるよう求めている」「政治に中立でないが選挙には中立になれる方法がどこにあるのか」「攻撃してくる人やその人の道徳的信頼性、論理的信頼性、政策力の信頼性を攻撃するのは当然のことだ」「(中央選挙管理委員会が選挙中立義務違反を決定した根拠となる法制度について)世界に類がない偽善的な制度」[114]
6月10日…「6月民主抗争は韓国の民主化実現における決定的な契機となった」「保守勢力に勝つという名分で地域主義を復活させたり機会主義を許してはならない」「反独裁の民主化闘争の時代は終わり、これからは保守勢力を民主的競争の相手として認め正々堂々と競争するべきで、対話と妥協、承服の民主杉を発展していかなければならない」[115]
6月16日…「わたしは国民が望むことを公約し、約束を守っている。歴代のどの政権、世界のどの政府と比較しても堂々と示せる成果がある」「(経済危機論に対して)経済の失敗や民生破たん、総体的な危機という主張こそが悪意のある中傷、謀略だ。10年前に韓国の経済を台無しにした人々の謀略だ」[116]
6月22日…「朝鮮半島平和定着のためには何より朝鮮半島の非核化を早期に実現すべきだ」「半世紀にわたる休戦体制を平和体制に転換させ、米朝、日朝間の国交正常化を促進させていく必要がある」「北東アジアの未来のために解決すべきもう1つの課題は韓日中の歴史問題だ。何よりもまず、日本の認識と姿勢が変わらなければならない。過去を心から反省し、これまでの謝罪を実践することで、2度と過去のようなことを繰り返さないという意志を明示する必要がある」[117]
6月22日…「(済州道海軍基地の建設問題について)平和の島になぜ軍事基地が必要かという人もいるが、非武装平和は未来の理想であり、武装なくして平和を守ることはできない」[118]
6月25日…「絶えず相手を警戒し敵対する感情をあおっては信頼を築くことはできず、和解と協力の対話も実現できない」「われわれは朝鮮戦争が残したつらい教訓と参戦兵士たちの犠牲を記憶にとどめた上で、未来に向けて過去を克服し敵対感を解きほぐす努力をしている」「(北朝鮮核問題について)平和の道に確実に足を踏み入れた。南北共同声明につながる6カ国協議合意は、核問題の解決を超え、朝鮮半島平和体制と北東アジアの多者間安全保障体制の構築にもつながる重要な道しるべとなる」「いつまでも米国に依存するわけにはいかない」[119]
6月26日…「小川にいる人はいつもガキ大将ばかりではない。小川から時々竜が出たり鯉が出たりできるようにコースを設定する」「低所得層に入学の機会を与えることはともに生きていく我々の社会の道徳的価値」「貧乏で大学に入れずに貧乏が代々続く悪循環を阻まなければならない」[120]
6月27日…「平和の島、済州がユネスコの世界自然遺産に登録されたことを、全国民とともにうれしく思い、済州道民のみなさんにも格別なお祝いのメッセージを捧げたい」[121]
6月…(ハンギョレ新聞とのインタビューで、南北首脳会談の可能性について)「前任の社長が発行した手形を後任の社長が決済すると考えればいい。わたしの残りの任期が2カ月だろうが、3カ月だろうが、(北朝鮮に)出掛けて判を押して合意すれば、後任(の大統領)も拒否できない」[122]
7月1日…「北朝鮮は平昌を支持しており、2014年にはかなり安定した南北関係の土台の上で大会を開催することができる」「平昌開催までの過程で南北間がさまざまな協力を実現し、平和と協力の五輪精神が南北間にも広がれば、朝鮮半島平和の雰囲気がかなりの速度で促進できる。それがひいては北東アジアと世界平和の機会となり、全世界、人類に肯定的な平和のメッセージを与えることになる」「わたしは必ず大会開催に成功するという国民との約束を、オリンピック委員たちに伝えるためにここへ来た」[123]
7月2日…「2014年なら南北(韓国・北朝鮮)関係がかなり安定した基盤の上で大会を挙行できるだろう」「平昌が誘致に成功すれば(南北)同時入場だけでなく、単一チームで出場できるはず」「韓国は分断国家だが、マカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)問題が解決し、北朝鮮と米国が北朝鮮核問題を解決しようという強い意志を持っている」「平和と協力のオリンピック精神が南北間に充満すれば、韓半島の平和ムードを促進することになるだろう」[124]
7月2日…「オリンピックは韓国の発展や市民意識の成長に大きく寄与しており、五輪開催に対する韓国人の要望は非常に強い」[125]
7月5日…「(平昌のオリンピック招致失敗について)勇気のある人は、敗北の中でも新しい希望の芽を見いだす。敗北はあっても韓国は決して敗北しない」「すべての競争には敗北があり、賢明な人は敗北から新しい知恵を得る」「敗北ムードに長くとどまらないのが良い。早く忘れよう」[126]
7月11日…「われわれは北朝鮮が合理的に見えないときも、忍耐をもち北朝鮮を尊重することで少しずつ互いの信頼を築きつつある」[127]
7月17日…「憲法改正論議が幅広く進行されるのであれば、内閣制も多様な代案の中の1つとして、検討する価値がある」[128]
7月18日…「(平昌のオリンピック招致について)成功しなかった瞬間、激しい非難を覚悟していたが、誰も私を非難する人はいないようだ。国民の意識がこういうことを寛容に理解し激励するレベルになったためではないかと思う」「どんなことでも結果が出なければいろいろと非難を受けるものだが、今回はそういう言葉がない」「私の関心はいつも、成功して勝った人よりも、成功できなかった人に大きく傾いている」「何も上手くやってないのに、なぜ失敗した人たちを青瓦台に招待して昼食会を開くのかと考えないでほしい」[129]
7月18日…「(江原道平昌の冬季オリンピック招致再挑戦に関して)江原道民とスポーツ界はもちろん、全国民の意向と力量を集め決定すべきだ」[130]
7月19日…「何かとある度に感情的対応へ向う軽薄な相互主義では、同問題を解決できない」「包容政策を受け入れ、実践しなければならない」「軍事的信頼醸成と共に経済協力を拡大し、南北(韓国・北朝鮮)連携を通じた北方経済時代を開いて行くべき」「北方経済時代が開けばベトナムの特需や中東の特需とは比べられない跳躍の機会が来るだろう」「今後ハンナラ党や候補らが一言投げかける形で適当に世論に便乗した後、後ほどになって有耶無耶にし、ひっくり返してしまうような公約ではなく、激しい討論を経て党論を集め、その党論に基づいた包容政策を公約として掲げる、といった手続きを取ることを期待したい」[131]
7月24日…「真実と和解委員会の勧告は司法府の権威を尊重しながら再審の道を開こうというもの」[132]
7月24日…(タリバンによる韓国人拉致について)「今はうかつに楽観する時でもなければ、そうかといって結果を先に悲観する時でもない」[133]
8月8日…「1回だけの成果というよりは、次の政府の役に立つよう南北首脳会談の制度化と定例化の基盤を作り、南北関係の進展はもちろん、北朝鮮と国際社会の関係改善を支援することも重要」[134]

著書
『人が暮らす世の中』(1989年)
『おーい、ちょっと助けてくれよ-盧武鉉の告白エッセー』(1994年、自伝的エッセー)
『盧武鉉が見たリンカーン』(2001年、盧武鉉が尊敬するリンカーンに託して自らの政見を語ったものだが、政治的書物としての評価は高い)
『盧武鉉・常識または希望』(2002年、邦訳は『韓国の希望 盧武鉉の夢』〔現代書館〕)
『盧武鉉のリーダーシップ論』(2002年、邦訳は『私は韓国を変える』〔朝日新聞社〕)
『新しい風、政治、働き手』(1989年、共著)
『明日を準備する今日』(1996年、共著)

参考文献
盧武鉉編著 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、青柳純一監訳、現代書館、2003年。
山本健太郎 『韓国における政党の大統領候補者選出過程-2002年の新千年民主党の「国民参加」党内選挙を中心に-』、『レファレンス』No.630、36-43頁、国立国会図書館、2003年7月。
石川雅重・嚴泰浩 『大韓民国の第16代大統領選挙』、『CLAIR REPORT』NUMBER 244、財団法人自治体国際化協会、2003年6月16日。
坂眞 『韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録』 飛鳥新社、2007年1月。
木村幹 『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』 中公新書、 2008年

脚注
^ 収賄:盧前大統領の側近、電撃逮捕 朝鮮日報 2008/11/23
^ 韓国の盧武鉉前大統領が登山中に滑落死 現地報道 Asahi.com 朝日新聞社 2009年5月23日9時58分配信
^ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、115-116頁及び134頁。盧武鉉が貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となった。
^ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、122頁。
^ 1996年の国会議員選挙で同区から当選した李明博(ハンナラ党)がこの年に行なわれたソウル特別市の市長選挙に出馬するため、議員辞職したことに伴って実施された。しかし、選挙法違反の裁判で有罪判決が言い渡されたため、李明博はハンナラ党の市長候補を決定するための予備選挙からの撤退を余儀なくされた。
^ 世宗証券めぐる不正事件、検察が盧建平氏を拘束 聯合ニュース 2008/12/04
^ 世宗証券疑惑:盧建平氏、農協前会長に直接買収依頼 朝鮮日報 2008/12/04
^ 【速報】盧武鉉前大統領が死去2009年5月23日 朝鮮日報
^ 盧前大統領逝去、元秘書室長「遺書残し飛び降りた」2009年5月23日 聯合ニュース
^ 盧武鉉の義父は朝鮮戦争中に北朝鮮側に立って労働党昌原郡党副委員長などを歴任し、反動分子の調査と虐殺に加担したとされる。『「盧大統領の義父はパルチザン」発言が無罪に』、朝鮮日報、2004年10月27日。また、このような李仁済の指摘に対し、盧武鉉は「ならば愛する妻を捨てろというのか」「どうしてそれが問題になるのか」と反論した。
^ 『盧候補がYSを12年ぶりに訪問』、朝鮮日報、2002年4月30日。
^ 『全国で「中学生追悼」のキャンドルデモ』、朝鮮日報、2002年12月15日。
^ 李会昌が6%の経済成長を公約に掲げたため、対抗して7%という数字を出したといわれている。『7%成長公約を「腹が立って」出したとは』、朝鮮日報、2004年11月5日。
^ 『鄭夢準氏、盧候補の支持を撤回』、朝鮮日報、2002年12月18日。
^ 『盧大統領「不法資金がハンナラ党の10分1超えれば辞任」』、朝鮮日報、2003年12月14日。
^ 『盧大統領と尹前長官、出会いから別れまで』、朝鮮日報、2004年1月15日。
^ 金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』小針進・羅京訳、柘植書房新社、2008年、346-347頁。ISBN 978-4806805748。
^ 『盧大統領・朴槿惠代表会談、合意なく終了』、朝鮮日報、2005年9月8日。
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^ 『「私は正気」盧大統領、演壇叩いて70分「決意に満ちた発言」』、中央日報、2006年12月22日
^ 基幹党員制とは全党大会の1カ月前を基準に、6カ月以上党費を納めた「基幹党員」にのみ、党内選挙権と非選挙権を認めるもの。外部人材の登用が難しくしていると問題視されていた。ウリ党中央委員会は、金槿泰らが率いる非常対策委員会に党憲・党規改訂権を与えていたが、法院はこれを無効とする仮処分を決定した。
(朝鮮語)『ヨルリン・ウリ(党)結局割れるか』、ハンギョレ、2007年1月19日。
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^ 無論の事これは大韓民国憲法で定められている第1章「総則」の第5条「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する」に違反する。
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^ 『「平和の海」発言:韓国政府内で事前協議はあったのか』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月9日。
^ 2002年9月11日の講演における発言。新千年民主党の大統領候補であった盧武鉉は、韓国の大統領候補者が行ってきた米国訪問を拒否し、「アメリカに行った事がない、ということは反米主義者を意味するのか。もしそうなら、反米主義者でもいいのではないか」と語った。劉敏鎬 『反米と親米との間-盧武鉉新大統領』、独立行政法人経済産業研究所、2003年1月20日。
^ 2003年5月12日、コリアソサイアティー主催の夕食会における発言。『【韓米首脳会談】盧大統領の対北観変わったか』、朝鮮日報、2003年5月15日。
^ ローレスは盧武鉉のバランサー発言を受けて駐米韓国大使館を訪れ、「北東アジアのバランサー論は韓米同盟と両立できない概念だ。もし同盟を変えたければいつでも言ってくれ。希望通りにする」と発言したという。『ローレス米国防部次官補「韓米同盟変えたい時はいつでも言ってくれ」』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2005年6月10日。
^ 作戦統制権とは作戦計画や作戦命令に明示されている任務を遂行する為に、司令部と部隊を組織し、その部隊を使用する権限。アメリカが、朝鮮半島有事の際の統制権を握っている。作戦統制権は主権に関わる指揮権とは異なり兵站・行政・規律・内部組織・部隊訓練に関する権限は含まない。詳しくは等 雄一郎他 『国連安保理決議に基づく多国籍軍の「指揮権」規定とその実態』、『調査と情報』第453号、4頁、国立国会図書館、2004年8月2日、を参照のこと。
韓国は朝鮮戦争中に、李承晩大統領(当時)がマッカーサー元帥に「韓国陸海空軍に対する指揮権移譲に関する書簡」を送り(1950年7月15日)、作戦指揮権(全ての指揮権)を在韓米軍(国連軍)に移譲した。そしてそれは米韓相互防衛条約(1954年)で作戦統制権に改められた。平時作戦統制権は1994年12月に韓国政府に移譲されたが、戦時においては現在もなお米韓連合軍司令官(在韓米軍司令官)が行使することとなっている。
本来であれば国防を果たすためにどのような手段を採るか、(作戦統制権の)単独行使と共同行使のどちらが戦力を効率的に運用できるかという議論なのだが、韓国では上記のような歴史的経緯から「失われた国権の回復」という政治課題となっている。事実、金泳三政権下での平時作戦統制権の移譲においても「返還」という言葉が使われた。『戦時作戦統制権返還の主な争点に関するQ&A』、駐日大韓民国大使館、2006年8月12日。
^ 『盧武鉉大統領、聯合ニュースとの特別会見(1)戦時作戦統制権』、駐日大韓民国大使館、2006年8月9日。
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^ 盧武鉉前大統領の実兄に不正疑惑、週末にも事情聴取へ読売新聞
^ a b c d 社説 田舎者といわれた盧前大統領の兄の真の姿 朝鮮日報 2009/03/26 閲覧
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^ 『統制権:「恥を知るべきだ」盧大統領、国防OBらを非難』、朝鮮日報、2006年12月22日。
^ 『盧武鉉大統領夫妻、最近不仲の原因は…』、朝鮮日報、2006年12月22日。
^ 『盧大統領「高建氏の総理起用は失敗だった」』、朝鮮日報、2006年12月22日。
^ 『盧大統領「軍隊に行けば人間が腐る」』、朝鮮日報、2006年12月24日。
^ (朝鮮語)『盧大統領「国民の評価は去年完全にあきらめた』、ノーカットニュース、2007年1月3日。
^ (朝鮮語)『盧「公開席上で侮辱を与えるのか。言葉を選べ』、ビュースエンニュース、2007年1月6日。
^ 『盧武鉉大統領「憲法改正に必要ならば離党も検討」』、聯合ニュース、2007年1月11日。
^ 『盧大統領「北の核先制使用を信じるのは精神病患者だけ」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
^ 『盧大統領「税金が高いなら、安いところに引っ越せばよい」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
^ 『盧大統領「韓国は歴史的に他国に害を及ぼしたことない」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
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^ 『「失敗はしたが政策は遂行」盧大統領が自己評価』、聯合ニュース、2007年3月13日。
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^ 『民主主義には寛容と責任が必要、盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年4月19日。
^ 『盧大統領「憲法改正留保、勢力不足の悲哀実感」』、聯合ニュース、2007年4月29日。
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^ 『列車試運転は平和に向けた大きな1歩、盧大統領』、聯合ニュース、2007年5月17日。
^ 『「地域主義に後退する兆しある」盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年5月18日。
^ 『盧大統領「先進韓国に仏教界の役割が重要」』、聯合ニュース、2007年5月24日。
^ 『韓国のイージス艦進水 世界で5番目の保有国に』、朝日新聞、2007年5月25日。
^ 『韓国初のイージス艦進水 日本や中国を意識か』、産経新聞、2007年5月25日。
^ 『盧大統領の「本当に必要な船だろか?」発言が論難』、文化日報、2007年5月26日。
^ 『李警察庁長を交代させる意思なし、盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年5月29日。
^ 『盧大統領「会見室改革、討論求めるなら応じる」』、聯合ニュース、2007年5月29日。
^ 『南北は譲歩しながら協力を続けるべき、盧大統領』、聯合ニュース、2007年5月30日。
^ 『「包容政策でも要求すべきことは要求」盧大統領』、聯合ニュース、2007年5月31日。
^ 『盧大統領が反論、「まともな経済がなぜ破たんか」』、聯合ニュース、2007年6月2日。
^ 『【社説】自称「世界的な大統領」の独演会を見て(上)』、朝鮮日報、2007年6月4日。
^ 『【社説】自称「世界的な大統領」の独演会を見て(下)』、朝鮮日報、2007年6月4日。
^ 『盧大統領独演会:李明博・朴槿恵氏らを名指しで批判』、朝鮮日報、2007年6月4日。
^ 『盧大統領独演会:半年で180度変わった対ハンナラ党発言』、朝鮮日報、2007年6月5日。
^ 『「指導者が独裁者の娘では困る」発言 盧大統領を告発』、産経新聞、2007年6月6日。
^ 『記者室統廃合:盧大統領「報道の自由度は韓>米日」』、朝鮮日報、2007年6月3日。
^ 『「アジアの共同繁栄に向け多様性を尊重」盧大統領』、聯合ニュース、2007年6月4日。
^ 『「大統領の政治活動を禁じる国はない」盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年6月5日。
^ 『盧大統領が戦死者追悼、遺体発掘事業も継続方針』、聯合ニュース、2007年6月6日。
^ 『盧大統領「あいまいな選挙中立要件は違憲」』、聯合ニュース、2007年6月9日。
^ 『6月民主抗争20周年、政府レベルで初の記念式』、聯合ニュース、2007年6月10日。
^ 『「公約守っている」盧大統領が国政運営成果を強調』、聯合ニュース、2007年6月17日。
^ 『盧大統領「米朝・日朝国交正常化促進すべき」』、WOW! Korea、2007年6月22日。
^ 『盧大統領「武装なき平和ない」、済州海軍基地問題で』、聯合ニュース、2007年6月23日。
^ 『南北信頼に向け相手認め包容すべき、盧大統領』、WOW! Korea、2007年6月25日。
^ 『盧大統領「小川から竜出すコース」意味は良いが…』、WOW! Korea、2007年6月27日。
^ 『自然遺産登録に沸く済州、盧大統領も祝賀メッセージ』、WOW! Korea、2007年6月27日。
^ 『【社説】南北首脳会談、いったい何のために行うのか(上)』、朝鮮日報、2007年8月9日。
^ 『盧大統領「平昌五輪は朝鮮半島、北東ア平和を促進」』、WOW! Korea、2007年7月2日。
^ 『盧大統領「平昌誘致なら南北単一チーム構成」』、WOW! Korea、2007年7月2日。
^ 『盧大統領、グアテマラで深夜まで得票活動展開』、WOW! Korea、2007年7月3日。
^ 『盧大統領「時々敗北しても韓国は決して敗北しない」』、WOW! Korea、2007年7月6日。
^ 『盧大統領とIAEA事務局長、核問題で緊密協力へ』、聯合ニュース、2007年7月11日。
^ 『盧大統領が憲法改正検討を提案「内閣制も価値ある」』、聯合ニュース、2007年7月17日。
^ 『盧大統領 「平昌の落選、非難受ける覚悟していた」』、WOW! Korea、2007年7月18日。
^ 『「五輪招致再挑戦は国民の意向で決定」盧大統領』、聯合ニュース、2007年7月18日。
^ 『盧大統領「軽薄な相互主義では北核解決できず」』、WOW! Korea、2007年7月19日。
^ 『盧大統領「真実委勧告の履行、国会の承認を得るべき」』、WOW! Korea、2007年7月24日。
^ 『盧大統領、拉致事件に「楽観も悲観もする時でない」』、WOW! Korea、2007年7月24日。
^ 『盧武鉉大統領「南北首脳会談、定例化の基盤に」 聯合ニュース 2007年8月8日。

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、盧武鉉に関連するマルチメディアがあります。青瓦台
韓国国家安全保障会議
親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法
日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法
盧武鉉遊び

関連人物
高建
李海瓚
韓明淑
鄭東泳
李鍾奭
潘基文
宋旻淳
金泳鎮
金槿泰
柳時敏

外部リンク
公式サイト『第16代大統領当選者・盧武鉉』(朝鮮語)
盧武鉉大統領略歴(外務省)
盧武鉉大統領紹介(駐日韓国大使館)
第16代国会議員選挙釜山江西乙合同遊説

チャウ・シンチー


Edit Category 似顔絵 > タレント(国外)
チャウ・シンチーわたしにはあまり馴染みのなかった俳優さんであるが、昨年、ムービープラスで「ミラクル7号」の劇場公開直前特集をやっていたときに見た。

オーディションで選ばれた女の子を男の子の主人公として起用したアイディアは素晴らしい。

この人は他に少林サッカーやカンフー・ハッスルにも出ていた。

今、世界で最も注目されている香港映画人の一人とのこと(ウィキペディアより)。

以下の記事はウィキペディアより。

~★~★~★~

周 星馳(チャウ・シンチー)は、香港の俳優、映画監督。愛称は星爺(シンイェ)、星仔(シンチャイ)。

人物・経歴
テレビの仕事をする前は、学歴が高くなかったこともあって秘書(悪く言えば使い走り)のような仕事しか選択できなかった。

香港TVBの俳優養成所の夜間訓練生として入所し、子供番組『430穿梭機』の司会者としてデビュー。この番組は2人の司会者が「良いお兄さん」と「悪いお兄さん」に扮し、「良いお兄さん」が「悪い悪いお兄さん」の素行を叱って話が展開していく教育番組で、チャウは「悪いお兄さん」役を担当した。この役を大好評のうちに5年間務め上げ、その後、総合チャンネルの司会者を1年務めた後、俳優としての活動を開始。当初は週に1、2日しか仕事がなかったが、この下積み時代にたくさんの本を読むなどして勉強したことが今日の彼を支えている[1]。

ドラマ初主演の時代劇『蓋世豪侠』で、一躍人気者となる。

『破壊之王』(日本未公開)でノンクレジットではあるが一部監督を行う。『國産凌凌漆(邦題:0061北京より愛を込めて!?)』で、初の共同監督としてクレジットされる。

日本では映画『少林足球(邦題:少林サッカー)』で一躍その名を知られるようになった。『功夫(邦題:カンフーハッスル)』との2作連続で、香港歴代興行収入の記録を塗り替え、監督・脚本・製作・主演をこなす、世界で最も注目されている香港映画人の一人である。

また、子供の頃からブルース・リーの熱心なファンで、香港小龍會(香港ブルース・リーファンクラブ)の名誉会長も務めていた。彼の銅像建立には全費用を負担し、満身で喜びを表していた。尊敬しているのはブルース・リー、憧れているのはジャッキー・チェンだという。

フジテレビ系列のバラエティ番組・トリビアの泉に出演したことがある。

2009年2月13日の金曜日に日本武道館でワールドプレミアを迎えた"DRAGONBALL EVOLUTION"の制作にも参加しているが、自分の意見が全く採用されないなどの待遇への不満や、作品の出来に対する不満からプロモーション活動には参加せず、一切手を引いた形となっている(その後同作品は批判、議論の対象とされている)。

また2008年末に、自身の監督によってリメイク製作される予定だった「グリーンホーネット」から突然降板した。最近になって、関係者が「チャウ・シンチーは出演する事も無いだろう」と発言している。


劇場公開・ビデオ発売された出演作品

映画
カウボーイ・ダンディ (1985)
血と報復の掟(原題:捕風漢子、1988)
ドラゴン・ファイト(原題:龍在天涯、1989)
ワイルド・ヒーローズ 暗黒街の狼たち(原題:義臚羣英、1989)
サンダードラゴン(原題:流氓差婆、1989)
俺たちの旅路 さらば愛しき日々よ(原題:龍鳳茶樓、1990)
チャウ・シンチー マイヒーロー(原題:一本漫畫闖天涯、1990)
チャウ・シンチーのゴーストハッスル(原題:師兄撞鬼、1990)
   ※香港レジェンドシネマ・フェスティバル(2008)で上映

超アブない激辛刑事 カリー&ペッパー(原題:咖喱辣椒、1990)
ゴッド・ギャンブラー 賭聖外伝(原題:賭聖、1990)
ゴッド・ギャンブラー2(原題:賭俠、1990)
トリック大作戦(原題:整蠱専家、1991)
レジェンド・オブ・ドラゴン(原題:龍的傳人、1991)
ゴッド・ギャンブラー リターンズ(原題:賭覇、1991)
チャウ・シンチー 新精武門(原題:新精武門一九九一、1991)
ファイト・バック・トゥ・スクール(原題:逃學威龍、1991)
ゴッド・ギャンブラー3(原題:賭侠2之上海灘賭聖、1991)
チャウ・シンチーの熱血弁護士(原題:審死官、1992)
   ※香港レジェンドシネマ・フェスティバル(2008)で上映

ハッピー・ブラザー(原題:家有囍事、1992)
ファイト・バック・トゥ・スクール2(原題:逃學威龍2、1992)
チャウ・シンチーのロイヤル・トランプ(原題:鹿鼎記、1992)
チャウ・シンチーのロイヤル・トランプ2
キング・オブ・カンフー(原題:武状元蘇乞兒、1992)
ファイト・バック・トゥ・スクール3(原題:逃學威龍三之龍過雞年、1993)
詩人の大冒険(原題:唐伯虎點秋香、1993)兼監督
マッド・モンク 魔界ドラゴンファイター(原題:濟公、1993)
   ※東京ファンタスティック映画祭(1996)でのみ上映

広州殺人事件(原題:九品芝麻官、1994)
0061北京より愛をこめて!?(原題:國產凌凌漆、1994)兼監督/脚本
チャウ・シンチーのゴーストバスター(原題:回魂夜、1995)
   ※香港レジェンドシネマ・フェスティバル(2008)で上映

チャイニーズ・オディッセイ Part1 月光の恋 (原題:西遊記第壹佰零壹回之月光寶盒、1995)
チャイニーズ・オディッセイ Part2 永遠の恋 (原題:西遊記大結局之仙履奇縁 、1995)
ミラクルマスクマン/恋の大変身(原題:百變星君、1995)
008皇帝ミッション(原題:大内密探零零發、1996)
食神(原題:食神、1996)兼監督/脚本
ラッキー・ファミリー(原題:97家有囍事、1997)
ハッスル・キング(原題:算死草、1997)
ラッキー・ガイ(原題:行運一條龍、1998)
喜劇王(原題:喜劇之王、1999)兼監督
ゴージャス(原題:玻璃樽、1999)
トリックマスター(原題:千王之王2000、1999)
ブルース・ロウ 猛龍特技 香港スタント伝説(2000)
1:99 電影行動(2003) 監督のみ、出演なし
少林サッカー(原題:少林足球、2001)兼監督/製作/脚本
カンフーハッスル(原題:功夫、2004)兼監督/製作/脚本
ミラクル7号(原題:長江7号、2008)兼監督/製作/脚本
少林少女(2008)製作のみ、出演なし
DRAGONBALL EVOLUTION(2009)製作

担当した声優
山寺宏一
平田広明
壇臣幸
堀内賢雄
星野充昭
小杉十郎太

脚注
^ 中国での対談番組『面対面』で語る

関連人物
馳星周:日本の作家。周星馳の大ファンで、彼の名前をひっくり返したものを自分のペンネームとした。

外部リンク
Stephen Chow Forum (English)
Stephen Chow - Internet Movie Database (英語)
Cat-Cat-Jet
算四莊
shin-sing.net
周星馳的電影世界
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%98%9F%E9%A6%B3" より作成

メル・ギブソン


Edit Category 似顔絵 > タレント(国外)
MEL GIBSONマッドマックス、リーサル・ウェポン・シリーズで有名な彼だが、監督としての腕前もたいしたもの。

スコットランドの独立のために戦った実在の人物、ウィリアム・ウォレスの生涯を描いた歴史ドラマ「ブレイブハート」はアカデミー監督賞を受賞した。

イエス・キリストの拷問シーンを綿密に描いて宗教的問題作とされた「パッション」はまだ観ていないが、監督最新作「アポカリプト」はつい先日観た。スペイン人侵略直前のユカタン半島を舞台に、生贄にされそうになった捕虜の脱走と生き残りを掛けた逃走を描いた作品で、前編ジャングルの中、話されている言葉はマヤ語(らしい)と、「退屈な映画に違いない」と思って観たのだが、予想に反して面白かった。マヤ文明もジャングルの生活についてもまるで知識はなかったが、延々と続く命がけの鬼ごっこには手に汗を握らされた。

当のメル・ギブソン本人は酔払い運転並びにスピード違反で逮捕されてみたり、女癖が悪いかどで離婚されてみたりと結構はちゃめちゃだ。実際の性格はリーサル・ウェポンの主人公、マーチン・リッグスに近いのかもしれない。

以下のプロフィールはウィキペディアから。

~★~★~★~

メル・ギブソン(Mel Gibson、本名:Mel Columcille Gerard Gibson、1956年1月3日-)は、アメリカ合衆国のニューヨーク州ピークスキル生まれの映画俳優、映画監督、映画プロデューサー。身長177cm。歴史スペクタクルを監督する際は、あまり知られていない役者を起用し、当時使われていた言語や衣装、時代考察に徹底的にこだわって制作をすることで知られる。

プロフィール
アメリカ生まれだが、父親の事業の失敗で1968年に家族でオーストラリアに移住した。ジェフリー・ラッシュとは大学時代のルームメイトだという。ジュディ・デイヴィスらと共にオーストラリア国立演劇学院で学び、1979年にアクション映画『マッドマックス』の主役でスターの座をつかんだ。オーストラリア映画で活躍した後、1982年にアメリカ映画初出演。『リーサル・ウェポン』シリーズなどで人気を確たるものにした。監督業にも乗り出しており、1995年の『ブレイブハート』でアカデミー監督賞を受賞している。

1979年に結婚したロビー・ムーアとの間に7人の子供がいる。また米国では熱心な純潔運動家としても知られており、避妊や妊娠中絶への反対をメディアに公言している。

2006年7月28日未明、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊にあるマリブの幹線道路でレクサスLS430を運転中に飲酒運転および67km/h以上の速度超過などの疑いで逮捕された。この際に警官に対し「ユダ公め!」などと反ユダヤ的な人種差別発言をしたとされる(Mel Gibson DUI incidentを参照)。

一説には『パッション』製作時にユダヤ団体から強烈な抗議を受けていたため、アルコールで酔っていた際に差別的な発言をしてしまったと言われる。

逮捕後、ABCのTV番組に出演し「とても恥ずかしく思う。酒が入ると、物を見るときのバランスが悪くなって、間違いを犯してしまう。もう誰かを失望させるようなことはしたくない」と公式に謝罪した。

双極性障害に罹っている。


『パッション』
教皇空位論を信奉する、超伝統主義カトリック教徒としても知られ、その信仰の篤さは自宅近くの丘にチャペルを建設してしまったほどである。2004年2月公開の『パッション』(日本公開は2004年5月)では、イエス・キリストの処刑までの12時間をリアルに描いた。イエスへの拷問シーンが緻密に描かれているため、米国公開時にはキリスト教徒の女性観客が心臓発作で死亡し、また公開阻止デモが行われた。その一方で、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が「聖書の内容に忠実だ」とコメントするなど物議を醸している。


主な作品
公開年 邦題
原題 役名 備考
1977 青春グラフィティ
Summer City スカロップ 日本未公開
1979 ティム
Tim ティム 日本未公開
マッドマックス
Mad Max マックス
1981 誓い
Gallipoli フランク
マッドマックス2
Mad Max 2: The Road Warrior マックス
1982 危険な年
The Year of Living Dangerously ガイ・ハミルトン
特別奇襲戦隊・Z
Attack Force Z ポール 日本未公開
1984 ザ・リバー
The River トム・ガーベイ
燃えつきるまで
Mrs. Soffle エド・ビドゥル
バウンティ/愛と反乱の航海
The Bounty フレッチャー・クリスチャン
1985 マッドマックス/サンダードーム
Mad Max Beyond Thunderdome マックス
1987 リーサル・ウェポン
Lethal Weapon マーティン・リッグス
1988 テキーラ・サンライズ
Tequila Sunrise マック
(デイル・マキュージック)
1989 リーサル・ウェポン2/炎の約束
Lethal Weapon 2 マーティン・リッグス
1990 ハムレット
Hamlet ハムレット
バード・オン・ワイヤー
Bird on a Wire リック
エア★アメリカ
Air America ジーン・リアック
1992 リーサル・ウェポン3
Lethal Weapon 3 マーティン・リッグス
フォーエヴァー・ヤング 時を越えた告白
Forever Young ダニエル
1993 顔のない天使
The Man Without a Face ジャスティン・マクロード 兼監督
1994 マーヴェリック
Maverick マーヴェリック
1995 キャスパー
Casper 本人役 カメオ出演
ポカホンタス
Pocahontas ジョン・スミス 声の出演
ブレイブハート
Braveheart ウィリアム・ウォレス 兼監督・製作
アカデミー監督賞受賞
1996 身代金
Ransom トム・ミューレン
1997 ファーザーズ・デイ
Father's Day ピアス店の男 カメオ出演
フェアリーテイル
Fairy Tale: A True Story フランシスの父 カメオ出演
陰謀のセオリー
Conspiracy Theory ジェリー・フレッチャー
1998 リーサル・ウェポン4
Lethal Weapon 4 マーティン・リッグス
1999 ペイバック
Pay Back ポーター
ザ・シンプソンズ
The Simpsons 本人役 声の出演
2000 ハート・オブ・ウーマン
What Women Want ニック・マーシャル ゴールデングローブ賞主演男優賞ノミネート
パトリオット
The Patriot ベンジャミン・マーティン
ミリオンダラー・ホテル
The Million Dollar Hotel スキナー
チキン・ラン
Chicken Run ロッキー 声の出演
2002 ワンス・アンド・フォーエバー
We Were Soldiers ハル・ムーア 兼製作
サイン
Signs グラハム・ヘス
2004 パッション
Passion of the Christ - 監督
2006 アポカリプト
Apocalypto - 監督


日本語吹き替え担当声優
磯部勉
安原義人
安原義人は『マッドマックス』から初期の出演作を担当。 現在はほぼ磯部勉が専属的に担当している。 吹き替え経験者の中でも『リーサル・ウェポン』シリーズ全作(テレビ朝日版)を担当した、唯一の人物としても知られている。又、磯部勉の吹き替えは支持率が高く、『ブレイブハート』等、未担当の作品の新録音源の発売を望むファンも多い。他に回数は少ないが山寺宏一、小山力也、鈴置洋孝、大塚明夫も複数作品で担当している。『テキーラ・サンライズ』ではビデオ版が神谷明、TV版は野沢那智と揃って定番を外している。『リーサル・ウェポン2』のビデオ版では世良公則が、TV版(フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』)『マッドマックス2』では柴田恭兵が吹替えたメル・ギブソンも観る事が出来る。


外部リンク
Mel Gibson - Internet Movie Database (英語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%96%E3%82%BD%E3%83%B3" より作成
 
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