安西ひろこ

2009.05.30.Sat.21:45
安西ひろこパッチリした目が印象的な安西ひろこさん。最近見ないと思っていたがこのほど復活した。再び出てきたらなんだかイメージが変わっていた。

以下の安西ひろこさんの記事はウィキペディアのものだが、いなくなっていた時期のことは記されていない。

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安西 ひろこ(あんざい ひろこ、1979年2月9日 - )は、日本の女優、タレント、モデル。本名、安西 紘子(あんざい ひろこ)。

神奈川県相模原市出身。相模原市立大野北中学校卒業。愛称は"ひろ"、"ひろぽん"、"あんぴろ"など。1998年度のフジテレビビジュアルクイーン。身長157.3cm、B89、W62、H90。IDO所属。

概要
中学卒業後、東京都町田市にある明泉学園鶴川高等学校普通科へ入学。しかし、芸能活動を一切禁止していた同校在学中にCMに出演してしまったため、自主退学へと追い込まれたが、北豊島高等学校(通信制)に編入して卒業。

1996年、グラビアアイドルとして芸能界デビュー。この時、年齢を1歳下にごまかしてデビューしていたが、成人式に二度出席していることが判明。目撃者からは疑問の声が上がっていた。 それから数年後、ダウンタウンDXにて年齢詐称を告白するが、浜田雅功に「1つくらいええやんか」と軽く言われ、また当時は年齢詐称に対し比較的寛容だったため、大きな騒ぎにはならずに済んだ。

1990年代後半までにグラビア、写真集の出版、テレビのバラエティー番組など多岐に渡る活躍をしていたが、1999年、ティーンズ雑誌のモデルに転向。 また、人気歌手の浜崎あゆみとともに、女子中高生のカリスマ的ファッションリーダーとして人気を集めた。 2000年以降にはエイベックスから歌手としてCDデビュー。安室奈美恵、MAX、V6などを手がけた事で日本でも有名なユーロビート作家のデイブ・ロジャースがプロデュースした。また、女優としても各テレビ局のドラマに出演。

特技は柔道(初段)と水泳で、特に柔道は中学生時代に神奈川県大会のベスト8まで到達したことのある実力の持ち主。 バラエティ番組ではお笑い芸人やタレントを背負い投げできれいに投げるパフォーマンスをしたり、トーク番組などで当時の部活の練習の過酷さをよく話していた。

2007年11月、CHEMISTRYの川畑要との交際が破局したと報道された。その際、すでに芸能界からは身を退いているとも伝えられたが、海外ブランド輸入ショップ「トコパシフィック」のスタッフとして同社のモデルとして活動するなど、完全に引退したというわけではなかった。


2008年9月、ギャル系ファッション誌BLENDA BLACKにて本格的に芸能界に復帰。7年ぶりの仕事に至った経緯や心境を綴った直筆メッセージなどが掲載された。

2009年3月より、本人によるブログがスタート。同年5月11日放送のしゃべくり007(日本テレビ)で久々のテレビ出演を果たした。


出演

テレビドラマ
ギフト(1997年、フジテレビ)
Days(1998年、フジテレビ)
救急ハート治療室(1999年、関西テレビ・フジテレビ系)
20歳の結婚(2000年、TBS系)
スタアの恋(2001年、フジテレビ系)

バラエティ
BiKiNi(1997年10月 - 1998年9月、テレビ東京)
ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!(1998年4月 - 2000年3月、テレビ朝日)
ごごいち(1998年4月 - 9月、フジテレビ)
恋のチューンネップ!!(1998年10月 - 1999年9月、日本テレビ)
特捜TV!ガブリンチョ(1998年10月 - 2001年3月、テレビ朝日)
加ト・けん・たけしの世紀末スペシャル!!(1998年12月19日、フジテレビ)
グラビアの美少女(MONDO21)
しゃべくり007(日本テレビ、2009年5月11日)

CM
NTTドコモ北海道
ツーカーセルラー東京
資生堂
日本コカ・コーラ ジョージア
ロッテ 雪見だいふく
アラクス ノーシンピュア
明星食品 一平ちゃんラーメン 一平ちゃん焼そば
東芝
日本赤十字社
東京都消費生活総合センター

映画
渚のシンドバット(1995年、東宝)
岸和田少年愚連隊 野球団〈岸和田少年野球団〉(2000年)

作品

写真集
Mystic (1997年11月、英知出版) ISBN 978-4-7542-1175-2
ヒロイン (1998年3月、白泉社) ISBN 978-4-592-73150-4
Embrace (1998年10月、ワニブックス) ISBN 978-4-8470-2502-0
Pleasuure blue (1999年3月、ぶんか社) ISBN 978-4-8211-2264-6
Privates (1999年9月、テイ・アイ・エス) ISBN 978-4-88618-201-2
最後の蒼 (2000年2月、近代映画社) ISBN 978-4-7648-1909-2

書籍
ハッピーガーリー (2000年9月、主婦と生活社) ISBN 978-4-391-61154-0
FASHION BOOK AF (2001年4月、竹書房) ISBN 978-4-8124-0735-6
「R」 (2001年12月、講談社) ISBN 978-4-06-336346-3

イメージビデオ(VHS)
安西ひろこ '97 No.1美少女アイドル(1997年、笠倉出版社)
この胸をあなたに・17才 (1997年、hmp)
Hi! Roco & Roco フジテレビ VISUAL QUEEN OF THE YEAR(1998年、ポニーキャニオン)
Final Beauty 安西ひろこ(1999年、ビームエンタテインメント)

イメージビデオ(DVD)
Final Beauty 安西ひろこ(1999年、ビームエンタテインメント)
Feel in ITALY(2001年、キングレコード)
ЯESOLUTION(2001年、エイベックス)

音楽
全てavex traxからリリース。


シングル
True Love(2000年10月18日) 「ただいま満室」挿入歌
Necessary(2001年4月25日) 「OLヴィジュアル系」主題歌
Andersen(2001年9月5日)
Let You Go(2001年10月24日)

アルバム
ЯEAL(2001年11月28日)

DVD
RESORUTION(2001年12月12日)

その他
SUPER EUROBEAT VOL.150 (2004年8月4日発売) AVCD-10150 ※ディスク2にTrue Loveが収録されている。

外部リンク
安西ひろこ公式ブログ 「HIROの…魔法をかけちゃうぞっ」
安西ひろこ - IDOオフィシャルプロフィール
FC2 Management

辻村明須香

2009.05.30.Sat.00:06
辻村明日香リンクをさせて頂いているゴルフの辻村明須香プロ。綺麗な方です。

2007年3月のダイキンオーキッドレディスで2位になった試合は、わたしの記憶が正しければ、テレビで見たように思います。

以下の記事はウィキペディアより。

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辻村明須香(つじむら あすか、1982年11月28日 - )は、福岡県出身の女子プロゴルファーである。愛称は「あすみん」。身長170cm、体重56kg。血液型A型。

経歴
4歳でおもちゃのクラブを握り始め、小学3年の時に本格的にゴルフを始める。
北九州市の九州ゴルフ専門学校を卒業後、2003年に2度目の挑戦でプロテスト合格(75期生)。
2007年3月のツアー開幕戦ダイキンオーキッドレディスに主催者推薦で出場し、プレーオフで米山みどりに敗れたものの2位と大健闘を見せた。
吉川ひなの、長谷川京子、新垣結衣らと同じ事務所レプロエンタテインメントに所属。フジテレビ「ジャンクSPORTS」に出演するなど、美人ゴルファーとして注目されている。
2007年9月、インスタントラーメンの日清食品とスポンサードを結ぶ。

年度別成績
年度 出場試合数 獲得賞金 賞金順位 最高成績
2004 28試合 1,952,000円 101位 33位タイ
2005 7試合 520,000円 146位 46位タイ
2006 8試合 7,582,050円 76位 3位タイ
2007 7試合 8,306,000円 74位 2位

外部リンク
公式サイト
あすみんオンライン 辻村明須香ブログ
LPGAプロフィール

八木亜希子

2009.05.29.Fri.00:33
八木亜希子八木さんはフジテレビのタレント的女子アナが流行りだした初期のころの人。有賀さんや河野さんと確か同期。笑顔が一番可愛い人であった。

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八木 亜希子(やぎ あきこ、1965年6月24日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント。フォニックス所属。元フジテレビアナウンサー(1988年4月~2000年3月)。

来歴・人物
静岡県引佐郡三ヶ日町(現在の同県浜松市北区)で生まれ、神奈川県横浜市に移る。 横浜雙葉高等学校、早稲田大学第一文学部哲学科心理学専修卒業後、1988年フジテレビへアナウンサーとして入社。同期入社のアナウンサーは有賀さつき、河野景子(この二人とともに、いわゆる「女子アナ三人娘」と呼ばれたこともある)、青嶋達也。

ドラマ出演やCDデビューなど、アナウンサー以外の活動でも話題となったが、2000年3月末に退社。半年ほど経て、共同テレビジョン所属のフリーアナウンサーに。タレント・女優としても活動し、テレビCM・ドラマ・映画などに出演。2002年10月、大学時代の同級生である会社員と結婚。その後、アメリカのニューヨーク、カリフォルニア州サンノゼに在住し、現在は帰国し神奈川県在住。

明石家さんまと司会コンビを務めるクリスマス特番『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』(フジテレビ系)は、フジテレビアナウンサー時代の1990年から現在に至るまで続いている。2008年10月30日に古巣のフジテレビ、共同テレビ、セント・フォースが共同で設立したアナウンサー・プロダクションフォニックスに移籍した。


現在出演中の番組
BSフジLIVE PRIME NEWS(BSフジ) - 月~金曜19:00-20:55(2009年4月1日~)※月~木キャスター
リュウイン先生の楽食美人~漢方レシピでヘルシーエイジング~(BSフジ) - 木曜22:30-23:00 (再)土曜7:30-8:00
あなたとハッピー!(ニッポン放送) - 木曜日のみ(2008年1月10日~)
TOKYO CONCIERGE(J-WAVE) - 2001年4月~2003年3月、2008年10月~
明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー(フジテレビ) - 1990年12月25日~(毎年イブの深夜)
クメピポ! 絶対あいたい1001人(MBS系) - 2009年4月15日~

フリー転身後の出演
FNS春の祭典2000 - 2000年4月5日
FNS秋の祭典2000 - 2000年10月4日
爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル - 2000年12月~2002年12月
女子アナ。 - 2001年1月(第1話ゲスト出演)
みんなのいえ - 2001年公開(準主役級)
THE 有頂天ホテル - 2006年1月14日公開(客役)
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式 - 2007年2月10日公開(本人役)
明石家さんちゃんねる(TBS)- 2007年4月~2008年9月
八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション(ニッポン放送) - 2007年4月27日、2007年6月22日
2007天神祭生中継(テレビ大阪)- 2007年7月25日 ※司会
ボクらの時代(フジテレビ)- 2007年11月4日
垣花正のあなたとハッピー!(ニッポン放送)- 2007年12月11日
容疑者Xの献身 - 2008年10月4日公開(ニュースキャスター役)
久米宏のテレビってヤツは!?(MBS)- 2008年10月8日~2009年3月11日

CM
フュージョン・コミュニケーションズ
花王
小林製薬

フジテレビ時代の出演
ニュース・情報番組
FNNスーパータイム(お天気コーナー) - 1988年7月~1989年9月
お天気チャンネル - 1988年10月~1989年9月
FNNモーニングコール(月・火) - 1989年4月~1990年3月
今夜は好奇心!(リポーター) - 1990年4月~1991年3月
アンテナホット7(月・火・水) - 1990年7月~9月
FNNスーパータイム(週末版メインキャスター) - 1990年7月~9月
FNN NEWSCOM(金) - 1990年10月~1991年3月
プロ野球ニュース(日) - 1993年4月~1994年3月
おはよう!ナイスデイ - (司会)1991年4月~1993年3月
めざましテレビ - (司会)1994年4月~1998年3月
めざましテレビ週末号 - (司会)1997年4月~1998年3月
FNNスーパーニュース - (メインキャスター)1998年4月~2000年3月
バラエティ
出たMONO勝負
VIDEOレイダース - 1989年~1990年3月
ビデオの王様 - 1990年4月~9月
ビデオの女王様シリーズ - 1990年10月~1992年3月
初詣!爆笑ヒットパレード - 1991年1月1日
FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島 - 1991年7月20日(総合司会)
夜のヒットスタジオ・リターンズスペシャル - 1993年3月31日
殿様のフェロモン - 1993年4月~9月
明石家さんまのスポーツするぞ!大放送 - 1993年~1997年(全11回)
新春かくし芸大会 - 1994年、1995年、1998年、1999年、2003年
エンタメゆうえんち 東京移住計画 - 1995年10月~1996年3月
平成教育テレビ - 1996年7月13日(進行係)
ザッツお台場エンターテイメント! - 1997年3月31日
中村雅俊のゼッタイ!知りたがり - 1997年4月~1998年3月
FNS30周年'99秋の祭典 - 1999年9月29日
これが年の差なんてだろ!? - 2000年2月
ゲーム
真説サムライスピリッツ 武士道烈伝 (小田桐圭役〔声優として出演〕)
パワーリーグシリーズ
スーパーパワーリーグ3(プロ野球ニュースのキャスター〔声の出演〕)
スーパーパワーリーグFX(プロ野球ニュースのキャスター〔同僚の福井謙二と顔出しで出演〕)

エピソード
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就職活動当時日本テレビも受験していたが、最終面接で不合格となった。
フジテレビの入社最終面接で、ミュージカルが得意と履歴書に書いていたために、当時の鹿内春雄会長から踊るように言われ、その場で一人ミュージカルを演じた。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』の名物コーナー「食わず嫌い」の収録後トークで、そのミュージカルのことを石橋貴明に突っ込まれ、恥ずかしさのあまり顔を赤らめ両手で頭を抱えしゃがみ込んでしまった。ちなみに食わず嫌いは高野豆腐であった。
1991年にはウッチャンナンチャンの内村光良との交際を写真誌に撮られたこともあった。内村が会見で交際宣言。その後破局。
俳優の宮川一朗太は早稲田大学第一文学部の同級生。
元日テレアナウンサーの福澤朗は大学時代からの友人。
フリーアナウンサーの渡辺真理は、中学・高校の後輩。

関連人物
露木茂
大塚範一
三谷幸喜
明石家さんま

岡部いさく

2009.05.28.Thu.00:12
岡部いさく北朝鮮が元気だ。

例によって駄々をこねる3歳児のぐずる姿を見ているようで失笑の日々である。

人工衛星だと嘘を言って大陸間弾道ミサイルを飛ばしてみせたり、核実験と見せかけて地下で大量のTNT火薬を破裂させてみせたり(こういう説もある、という話)、なけなしの近距離ミサイルを連日発射してみせたりして、自分は強いんだ、自分は強い大人なんだ、と見せかけようとしているが成功していない。駄々をこねる3歳児であることになんのかわりもない。しかも馬鹿だ。

「PSIに正式参加した韓国には宣戦布告だ」と吠え立てるものの、実際の戦闘になったら半日くらいで掃討されるに違いない。核弾頭だってきっと持ってない(という説もある)。持ってないからこそ、持っているように見せかける芝居に手が込んでいる。下手な手品師だ。北朝鮮を黙らせるには、対話でも国連決議でも武力行使なく徹底して無視することではあるまいか。

今回、ロシアと中国が北朝鮮に冷たいのが気になる。駄々をこねる3歳児を、これまで可愛がってきた親戚までもが批判しだすと、3歳児は家出してしまうかもしれない。あるいは自傷や自殺の方向へ走ってしまうかもしれない。親愛なる馬鹿領主やアホ軍人たち、訳の判らないアナウンサーらがどうなろうが関係ないが、飢える北朝鮮の民衆とりわけコッチェビの子供たちがもっと酷い目に逢うのを見るのは忍びない。彼らは何も悪くないのに馬鹿どもが国を牛耳っているおかげで毎日が生命の危機だ。何とかして彼ら民衆を助けてあげられないものか。

いずれにせよ、北朝鮮が暴発して半日でなくなってしまうのはもったいない。もっともっと馬鹿なことをやって、もっともっと末永く楽しませてもらいたい。駄々をこねる北朝鮮を見ているのは、見え透いた猿芝居を見ているようで本当に笑える。今日はどんな馬鹿な発言をするのか、見るのがひじょうに楽しみな今日この頃である。

以下、こういった軍事的な情報に強い岡部いさくさんに関する記述はウィキペディアより。

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岡部いさく(おかべ - 、1954年 - )は、日本の軍事評論家。本名同じ。別名・岡部ださく。 埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身。学習院大学文学部フランス文学科卒業。航空雑誌「月刊エアワールド」編集者、艦艇雑誌「月刊シーパワー」編集長を経て、フリーとなる。フジテレビの報道番組に出演することが多い。父親は漫画家の岡部冬彦。姉は漫画家のおかべりか、妹はイラストレーターの水玉螢之丞である。

人物
「月刊モデルグラフィックス」誌上等にて「岡部ださく」のペンネームで『世界の駄っ作機』シリーズも執筆し、軍事ファンにしか解らないコアな視点でユーモアのある軍事批評も行う。またF1ファンでもあることから、雑誌「F1グランプリ特集」(ソニー・マガジンズ)では航空機とF1マシンに共通するテクノロジーを取り上げるコラム『スピンオフ』を連載している。

アニメ『ストラトス・フォー』のOVA第2シリーズである『ストラトス・フォー アドヴァンス』に軍事評論家として実名で登場し、声も担当した。また、フジテレビ系列で放送された『海猿』のテレビドラマ『海猿 UMIZARU EVOLUTION』にも軍事評論家役で出演している。

ガンダムファンとしても知られ、アニマックスで放送された劇場版『機動戦士Ζガンダム』の特別番組に出演し、エマ・シーンのファンであると語った。そういった関係からか、『マスターピース ゼータ・ガンダム』ではサイド6のリーアコロニー出身の軍事評論家「イサク・オカベ」としてΖガンダムに関する考察文を書いている。また、『機動戦士ガンダム00』には、設定協力として制作に参加する。

またコアなロボットアクションゲーム『アーマード・コアシリーズ』の初代からのファンでもあるらしく、最新作『アーマード・コア フォーアンサー』のプロモーションでは当該世界に住む軍事評論家として、登場するACやAF等の兵器などの解説をした動画が配信された。

具体的な病名、症状は明らかにされていないが、2000年代に入ってから歯牙の障害が著しく進行し、TV出演などで滑舌よく話すことが難しくなってきている。

著書
世界の駄っ作機 1-3 岡部ださく 大日本絵画 1999-2003 
検証:日本着弾 「ミサイル防衛」とコブラボール 石川潤一,能勢伸之共著 扶桑社 2001
クルマが先か?ヒコーキが先か? A great deal of complexity 1-3 二玄社 2002-07 
世界の駄っ作機 番外編 大日本絵画 2004
戦争のリアル disputationes Pax Japonica 押井守共著 エンターブレイン 2008

翻訳
現代の戦闘機 ビル・ガンストン ホビージャパン 1988 (イラストレイテッド・ガイド 1)
パンツァーズ・イン・ノルマンディ Eric Lefevre 大日本絵画 c1988
スパイ機 ビル・ガンストン ホビージャパン 1988. (イラストレイテッド・ガイド 4)
英仏海峡の空戦 デズモンド・スコット 朝日ソノラマ 1990 (新戦史シリーズ)
ソビエトウイングス 現用ソビエト軍用機写真集 アレクサンダー・M.ズース 大日本絵画 1991
巨星「ヤマモト」を撃墜せよ! 誰が山本GF長官を殺ったのか!? C.V.グラインズ 光人社 1992
イスラエル空軍 メラヴ・ハルペリン,アハロン・ラピドット 朝日ソノラマ 1992 (新戦史シリーズ)
バルジの戦い ジャン・ポール・パリュ 大日本絵画 1993
ドイツ空軍の終焉 西部戦線ドイツ戦闘機隊、最後の死闘 ヴェルナー・ジルビッヒ 大日本絵画 1994
Dデイの惨劇 1944年6月、連合軍敗退 ピーター・ツォウラス 大日本絵画 1995
はやわかり第二次世界大戦史 ジョン・マロン 光人社 1999
633爆撃隊 フレデリック E.スミス 光人社NF文庫 2000 
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E3%81%84%E3%81%95%E3%81%8F" より作成

反町アナ

2009.05.27.Wed.00:05
反町理アナウンサー反町さんはフジテレビのアナウンサーである。

いつも国会記者クラブにいるようにみえる。

主に安藤さんと会話しているようにみえる。

わたしは反町アナが好きだ。なぜなら、彼が画面に現れると、きらびやかに装飾を施し視聴率のためなら平気で嘘をつく(やらせ)ような映像メディア(もちろんすべてがそうではないが)全体に対して挑戦のようにみえるからである。

ゆけ、反町アナウンサー。
がんばれ、反町アナウンサー。

以下の反町さんに関する記述はウィキペディアより。

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反町理(そりまち おさむ、1964年4月26日 -)はフジテレビジョンの記者、ニュースキャスター。

来歴・人物
神奈川県出身。1987年、早稲田大学政経学部政治学科卒業。同年、株式会社フジテレビジョン入社。フジテレビ報道局政治部に所属しており、2009年4月1日から、BSフジのBSフジLIVE PRIME NEWSのキャスターを務める。


現在出演中の番組
BSフジLIVE PRIME NEWS(BSフジ) - 月~金曜19:00-20:55(2009年4月1日~)

エピソード
178cm、100kgの巨体で草野球を本格的な趣味にしている。草野球チーム「ROUTE」に所属している。
1993年の夏に、政治部の一若手記者ながら、横井克裕アナウンサー(当時)の代役として『FNNおはよう!サンライズ』にサブキャスターとして出演したことがある。メインキャスターの上田昭夫がエンディングで「横井アナがガッチリした体格のため、同じく体格のいい人を呼んだ」という旨の説明をした。

反町隆史

2009.05.26.Tue.00:32
反町隆史蒼き狼チンギス・カンを演じた反町隆史さん。チンギス・カンの肖像とは似ても似つかないがさすがはモンゴロイド、雰囲気は出ている。顔を似せるだけであれば泉谷しげるさんのほうが良かった。

以下、反町隆史さんに関する記事はウィキペディアより。

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反町 隆史(そりまち たかし、本名: 野口 隆史(のぐち たかし)、1973年12月19日 - )は、日本の俳優。埼玉県浦和市(現在のさいたま市南区)出身。所属事務所は研音。血液型AB型。身長181cm、体重65kg。

略歴
浦和市立大谷場小学校、浦和市立大谷場中学校、浦和学院専門学校高等課程中退。専門学校在学中からモデルなどを経験。 デビュー当初はジャニーズ事務所に所属しており、平家派のメンバーとして光GENJIのバックダンサーを務めていたが、所属事務所を研音に移籍してからはファッションモデルとして活躍。この時に今の芸名に改名する。由来は元プロボクサーでOPBFウェルター級チャンピオンにも輝いた「龍反町」(りゅう・そりまち)で、社長が「龍のような男になれ」という願いを込めて名付けたという。ちなみに龍の本名は反町則雄である。

1994年にテレビドラマ『毎度ゴメンなさぁい』で俳優デビュー。以降、テレビドラマを中心に活躍する傍ら、歌手としてもライブ活動などを積極的に敢行(現在は、歌手としての活動はない)。

1997年から1998年にかけて『バージンロード』『ビーチボーイズ』『GTO』といった話題作に立て続けに出演し軒並み高い視聴率を獲得。また、この時期は木村拓哉と肩を並べるほどの勢いがあった。

ドラマ『GTO』で共演した妻の松嶋菜々子とは、GTO撮影終了から約1年後の1999年11月に交際スタート(GTO撮影時は、まだ付き合っていない)

2001年2月、2月21日に入籍、結婚。2月22日に、フジテレビのスタジオで、2人で会見を開いた。2人の人気はその当時既に絶頂であったため、芸能史上稀に見るビッグカップル誕生と騒がれた。

2004年5月31日に長女、2007年11月30日に次女が誕生。プライベートと仕事を区別しているため、子供は一切公表していない。


人物
趣味は音楽鑑賞、バスフィッシング。バスフィッシングでは、現在TBC(利根川バスクラブ)に所属、同団体が開催しているバストーナメントに参戦しており、過去には入賞経験もある腕前。TBC2008第5戦では5位に入賞している。また、ルアーメーカーであるメガバスがスポンサードしており、国際フィッシングショー2008ではメガバスブースに顔を出している。
学生時代にやっていたスポーツはサッカーで浦和市立大谷場小学校の2年生から本格的にサッカーを始めた。将来の夢はプロサッカー選手か漁師になることだった。
市立大谷場中学校3年生の時ジャニーズ事務所入りして、本名の野口隆史で活動。当時人気グループだった光GENJIのバックダンサーとして活動してた時期がある。

歌手活動
歌にはこだわっており、1997年に「Forever」で歌手デビューを果たす。アルバムも発売している。さらに『第48回NHK紅白歌合戦』(NHK、NHK紅白歌合戦)にも初出場し、1998年には憧れだったシンガーソングライター氷室京介提供作品「One」、自身が主演を果たしたドラマ『GTO』の主題歌「POISON 〜言いたい事も言えないこんな世の中は〜」をリリースし、いずれもヒット曲となった。それ以降歌手としての活動はしていない。作詞は、インタビューで「僕は僕自身の言葉で語りたい」と語っていた事もあり、すべて反町自身が手掛けている。


ジャニーズJr.時代の参加ユニット [編集]
平家派

出演
太字は主演作品

テレビドラマ
毎度ゴメンなさぁい (1994年7月5日 - 9月20日・TBS系列・高田裕二役・松雪泰子主演)
部屋においでよ (1995年1月13日 - 3月24日・TBS系列・中原健役・清水美砂主演)
毎度おジャマしまぁす (1995年4月11日 - 6月27日・TBS系列・鶴田裕二役・松雪泰子主演)
未成年 (1995年10月13日 - 12月22日・TBS系列・坂詰五郎役・いしだ壱成主演)
竜馬におまかせ! (1996年4月10日 - 6月26日・日本テレビ系列・岡田以蔵役・浜田雅功主演)
翼をください! (1996年7月1日 - 9月23日・フジテレビ系列・桜木淳弥役・内田有紀主演)
バージンロード (1997年1月6日 - 3月17日・フジテレビ系列・吉見薫役・和久井映見主演)
ビーチボーイズ (1997年7月7日 - 9月22日・フジテレビ系列・桜井広海役)
GTO (1998年7月7日 - 9月22日・フジテレビ系列・鬼塚英吉役)
Over Time-オーバー・タイム (1999年1月4日 - 3月20日・フジテレビ系列・楓宗一郎役)
チープ・ラブ (1999年10月15日 - 12月17日・TBS系列・柳瀬純一役)
ラブコンプレックス (2000年10月12日 - 12月21日・フジテレビ系列・真行寺アユム役・唐沢寿明とW主演)
ナンバーワン (2001年12月27日・TBS系列・夢野狂夜役)
利家とまつ〜加賀百万石物語〜 (2002年1月6日 - 12月15日・NHK・織田信長役・唐沢寿明主演)
ダブルスコア (2002年10月8日 - 12月17日・フジテレビ系列・橘真ノ介役)
ホットマン (2003年4月10日 - 6月19日・TBS系列・降矢円造役)
流転の王妃・最後の皇弟 (2003年11月29日 - 11月30日・テレビ朝日系列・桜井哲士役)
ワンダフルライフ (2004年4月13日 - 6月29日・フジテレビ系列・桐島明役)
シェエラザード 海底に眠る永遠の愛 (2004年7月31日・NHK・陸軍少佐/堀勝一役)
ホットマン2 (2004年10月7日 - 12月23日・TBS系列・降矢円造役)
日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ (2005年10月11日・日本テレビ系列・杉原千畝役)
戦国自衛隊・関ケ原の戦い (2006年1月31日、2月7日・日本テレビ系列・伊庭二等陸尉役)
14才の母 (2006年12月13日、20日・日本テレビ系列・土田太郎役・志田未来主演)
千の風になって 第2弾「ゾウのはな子」 (2007年8月4日・フジテレビ系列・吉岡亮平役)
ドリーム☆アゲイン (2007年10月 - 12月・日本テレビ系列・小木駿介役)
ロト6で3億2千万円当てた男 (2008年7月 - 9月・ABC・テレビ朝日系列・立花悟役)

映画
君を忘れない (1995年9月23日・日本ヘラルド映画・三浦草太・唐沢寿明主演)
GTO (1999年12月18日・東映・鬼塚英吉役・鈴木雅之監督)
フルタイム・キラー(FULL TIME KILLER 全職殺手) (2001年8月3日・"O"・香港公開、アンディ・ラウと共演)
13階段 (2003年2月8日・東宝・三上純一役)
男たちの大和/YAMATO (2005年12月17日・東映・角川春樹事務所)
蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜 (2007年3月3日・松竹・角川春樹事務所)

ドキュメント
火曜ワイドスペシャル「反町隆史が泣いた アフリカ最高峰・キリマンジャロに挑む」2000年7月25日

CM
江崎グリコ 『アーモンドチョコ』 『ココナッツポッキー』 『LEE』
関西セルラー
ロート製薬 『ロートZi:Φ』『ロートZi:fLush』
資生堂 『アグレ』
三菱自動車工業 『パジェロ Jr.』
富士フイルム 『エピオン』
UCC上島珈琲 『UCCスーパー2』
ダイワ精工 『企業』
日本航空 『'98 JAL 沖縄』 『JAL SKI 北海道'99』
日本コカ・コーラ 『リーフス』
永谷園 『お茶漬け海苔』
マイクロソフト 『MSN Hotmail 年賀状キャンペーン』
ポーラフーズ 『MINTIA』
三共 『リゲイン』
合同酒精 『Hi-Boy』
ミリオンカード・サービス 『ミリオンカード』 『ミリオンギフトカード』
UFJカード
ライオン 『デンターアミノ』
トヨタ自動車 『トヨタ・ヴォクシー』
中央商事 東急不動産 東京急行 三菱地所 相鉄不動産 『Prize Hill』
キリンホールディングス
キリンビバレッジ 『FIRE オンリーワン』『FIRE 挽きたて工房』
キリンビール 『麒麟ZERO』
花王 『アタック』

音楽

シングル
Forever (1997/7/30、キティMME)
リッチー・サンボラがギターとコーラスで参加している。
フジテレビ系ドラマ「ビーチボーイズ」主題歌。
FOREVER DREAM (1997/12/19、キティMME)
ONE (1998/4/15、キティMME)
作曲は氷室京介。後に、氷室がセルフカバーをした。
サントリー「FIRE」CMソング。
POISON 〜言いたい事も言えないこんな世の中は〜 (1998/7/29、キティMME)
フジテレビ系ドラマ「GTO」主題歌。
Poison -Movie Mix- (1999/12/18、キティMME)
Free (2000/11/1、ユニバーサル・シグマ)

アルバム
メッセージ (1997/9/10、キティMME)
HIGH LIFE (1998/9/18、キティMME)
SOUL (2000/12/6、ユニバーサル・シグマ)

ベストアルバム
BEST OF MY TIME [Limited Edition] (1999/3/17、キティMME)
スペシャル・ボックス仕様。スペシャル・ビデオと未公開写真集を含むブックレットをセットにした豪華版。
BEST OF MY TIME 〜1999 (2000/3/29、キティMME)
BEST OF MY TIMEに、映画版『GTO』主題歌「POISON〜movie#mix〜」を新しく収録。
BEST of BEST (2006/6/7、ユニバーサルJ )

ビデオ
メッセージ (VHS:1997/10、DVD:2000/12/20)
ONE HOUR LIVE MESSAGE (VHS:1998/03、DVD:2000/12/20)
CLIPS and more (VHS:1998/12)
TAKASHI SORIMACHI LIVE TOUR'98 HIGH LIFE (VHS:1999/02、DVD:2000/12/20)
1997-2000 SINGLE CLIPS (DVD:2000/12/20) VHS「CLIPS and more」にPV「Free」を追加収録したもの。



RUN AND GUN (VHS:1999/07) プライベートバスフィッシングビデオ

著書
Song of Love―TAKASHI SORIMACHI (2001/06 ワニブックス)

チンギス・カン

2009.05.25.Mon.00:09
チンギス・ハーンわたしが初めてジンギスカン鍋を食べたのは25歳のとき札幌にあるサッポロビール園で。うまかった。

以下の記述はチンギス・カンについてのウィキペディアからの記述。

~★~★~★~

チンギス・カン(1162年頃? - 1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)(在位1206年 - 1227年)。

一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。その帝国がチンギスの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄としてチンギスは賞賛された。とくに故国モンゴルにおいて、チンギスは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。生年は異説あり。

名前
一般には近代モンゴル語 Чингис Хаан [ʧiŋgɪs χaːŋ](ヘルプ・ファイル)に近いチンギス・ハーンという表記が広く用いられており、同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音した。本項でもこれを使用する。漢字では、「成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・ハン」という発音を漢字に写したものである。(中国語での発音とすれば、これはチンギス・ハンである。カンではない。)

かつてはアラビア文字表記による جنكز خان (jinkiz khān) から転訛した欧米の諸言語の発音に基づきジンギス・カンと書かれることが多かったが、チンギスの表記が一般化した現在では、むしろまれである。

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。


生涯

チンギス・カンの先祖と生い立ち
チンギス・カンの生まれたモンゴル部は遊牧ウイグル帝国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民だった。

チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫をもたないまま3人の息子をもうけた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。

ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。やがて、ボドンチャルから7代目とされるカブルがモンゴル諸部族で最初のハーン(カン、ハン)の称号を、名乗りカブル・カンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。チンギス・カンの父イェスゲイ・バアトルはカブル・カンの孫で、第3代カンとなったクトラ・カンの甥である。

チンギス・カンはそのイェスゲイの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin, 鉄木仁もしくは鉄木真)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。『元朝秘史』などによるとこの時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい[2]、このためイェスゲイはその戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見えるポール・ペリオによると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『雑阿含経』第25巻にある『アショカ王物語』(Ašokāvadāna)の中で、カウシャンビーの王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に着け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。

テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとは分からない。一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。

1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」(1155年1月6日-2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカとテムジン・ウゲ捕縛の年だったことが説明されている。また没年も「ブタの年」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」とあり、生没年が同じ「ブタの年」だったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日-2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。

一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、孟珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。

このようにチンギス・カンの生年の年代について、資料によって様々であり多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀 編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296‐1370)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者柯劭(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。

ちなみに、この「テムジン」(temüǰin)とはテュルク・モンゴル語で「テムルチ」(temür-či)、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶屋だった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13、14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家パキメレスや、同じくマムルーク朝の歴史家ヌワイリー、1247年のグユクの即位に列席したキリキアの小アルメニア王国のハイトン1世の旅行記、さらには1254年にモンケの宮廷を訪れたルブルクのギヨーム修道士の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。

父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトル(勇者)の称号をもつ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・カン)とも同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで一代で急速に勢力を拡大した。また、『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられている。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。

テムジンは父の死の知らせを受けると直ちに家族のもとに戻された。幼い子供たちを抱えてイェスゲイの家産の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成人してくると、モンゴルの第2代アンバガイ・カンの後裔で、キヤト氏のライバルだったタイチウト氏の人々はイェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど、辛酸をなめた。このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・カンや、モンゴル部内のテムジンの盟友(アンダ)であるジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちだった。

『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウン、チンバイ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。後にジェルメはジェベ、クビライ、スブタイの3人と共に「四狗」と呼ばれる四天王の1人となる。「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。ボオルチュやチウランも後にポロクル、ムカリと共に「四駿」と呼ばれる四天王の1人となる。「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。


諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。

あるとき、ジャムカの一族がテムジンの配下の家畜をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。

さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトグリルが追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命し、続いてジャガ・ガンボを頼ってトグリルがテムジンのもとに合流してケレイトの王位に復した。両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんで義父子の関係を結んで同盟し、協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った。この功績によりテムジンには金から「百人長」の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトグリルには「王」の称号が与えられ、オン・カンと称するにようなったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近いかたちで同盟していたことが分かる。

テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年には高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをフルンブイルに打ち破った。

1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。

しかし同年、オン・カンの長男イルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。


帝国の建設
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカをついにとらえて処刑した。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。

翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。チンギス・カンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。「チンギス」という語彙の由来については確実なことはわかっていないが、もともとモンゴル語ではなくテュルク語からきた外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズを語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。

チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

戦時においては、千人隊は1000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。


征服事業

チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。

この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。

こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。翌1214年、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。1215年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲、陥落させた。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・カンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。

このころ、かってナイマン部族連合の首長を受継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけこんで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた[要出典]。そこで、チンギスは腹心の将軍ジェベに2万の軍を先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。

1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった可能性を指摘する説もある)。その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンをモンゴル本土に留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達した。モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギスの親征軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者V.V. バルトリドは、その規模を15万から20万人と推計している。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊した。

ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。

一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーンを追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、大断事官シギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり(パルワーンの戦い)、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子モエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹トムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。

アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘も近年、モンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによって指摘されている[3]。

チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去った。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。チンギスは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。


最後の遠征
西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。

これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。

1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は三十万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。

翌1227年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西、河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平は拒否した。

ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去した。『元史』などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝たちはこの起輦谷へ葬られた。

彼は、死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国をつくり、その死後には世界最大の領土をもつ帝国に成長する基礎が残された。


陵墓と祭祀
チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたとみられているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの葬送の隊列は行く手に見かけた人々を全て殺して進んだという。

チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。

一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国の内モンゴル自治区に「成吉思汗陵」と称する施設があるが、これは毛沢東が延安に移動させた後、50年代に中国共産党が八白室を固定施設に変更して建設されたもので、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。

冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは、民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が、外国人に発掘されることに不満を持つ人が多いという。

2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。


チンギス・カンの子孫

モンゴル帝国モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。

13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。

チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しかあらわれなかった。モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。

こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。

2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。彼らによれば、現在までに彼のY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという([1]、[2])。


再評価
このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。

モンゴル人民共和国はスフバートル、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ドクソム等のモンゴル人民族主義者が作ったモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト連邦の赤軍の支援を受けて独立宣言させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だった。当初はリンチノら汎モンゴル主義者によって革命のためにチンギスカンを政治的利用させていた。

1960年代にはトゥムルオチル政治局員によってチンギス・カンの祝賀が行われ、切手も発行され、巨大な記念碑も建設された。トゥムルオチル政治局員とライバルだった当時の首相ツェデンバルはこれを機にトゥムルオチルを「中国寄り」であるということで追放させた。以後チンギス・カンは批判されていった。

モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生のモンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、崇拝を集めることになった。


宗室
『集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する四人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。


父母兄弟
父 イェスゲイ
母 ホエルン
次弟 ジョチ・カサル
三弟 カチウン
四弟 テムゲ・オッチギン
異母弟 ベルグテイ・ノヤン
『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベルテルという、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベクテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベクテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。
妹 テムルン

后妃
チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第一位、クランを第二位、イェスゲンを第三位、公主ハトゥン(كونجو خاتون Kūnjū Khātūn)こと岐国公主を第四位、イェスルン(イェスイ)を第五位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。


大オルド
ボルテ・フジン(孛兒台旭真太皇后) コンギラト部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)
忽魯渾皇后
闊里桀 皇后
脱忽思皇后
帖木倫皇后
亦憐真八剌皇后

第二オルド
クラン(忽蘭皇后) ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘
哈児八真皇后
亦乞剌真皇后
脱忽茶児皇后
也真妃子
也里忽禿妃子
察真妃子
哈剌真妃子

第三オルド
イェスルン(イェスイ 也速皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスゲンの妹
忽魯哈剌皇后
阿失倫皇后
禿児哈剌皇后
察児皇后
阿昔迷失皇后
完者忽都皇后
渾魯忽歹妃子
忽魯灰妃子
剌伯妃子
岐国公主 金朝皇帝・衛紹王の娘

第四オルド
イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの姉
忽答罕皇后
哈答皇后
斡者忽思皇后
燕里皇后
禿干妃子
完者妃子
金蓮妃子
完者台妃子
奴倫妃子
卯真妃子
鎖郎哈妃子
八不別及妃子
『集史』チンギス・ハン紀后妃表には五人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma )について記録されている。

ベクトゥトミシュ・フジン ケレイトのジャガ・ガンボの娘でトルイの妃ソルコクタニ・ベキらの姉妹。
グルベス・ハトゥン ナイマン部族連合の首長タヤン・ハンの第一ハトゥンだった人物。
チャク・ハトゥン 西夏皇帝の娘。
氏名不明 ナイマン出身。ジョルチダイの母

子女
『集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの諸子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料にもとづく)。


男子
ジョチ 母 ボルテ
チャガタイ 母 ボルテ
オゴデイ 母 ボルテ
トルイ 母 ボルテ
コルゲン(次六 闊列堅太子) 母 クラン
チャウル 母 イェスゲン
ジョルチダイ
オルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)
氏名不明 母 タタル部族出身の側室

女子
コアジン・ベキ - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ
チェチェゲン - 『元朝秘史』ではオイラト駙馬家の首長クドカ・ベキの息子イナルチに与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟トレルチに与えられたとされる
アラガイ・ベキ - オングト駙馬王家の首長アラクシ・テギン・クリの孫ボヤンカに嫁ぐ
トムルン - 同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟アルチ・ノヤンの長男チグウ・キュレゲンに嫁ぐ
アルタルン - ホエルンの弟タイチュ・キュレゲンの息子チャウル・セチェンに嫁ぐ
イル・アルタイ(アル・アルトゥン) - 母不詳。天山ウイグル王国に嫁ぐ。

脚注
^ ドルヂスレン・ツェー著,小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号(1967), p.1-16.
^ デリウン岳 Deli'ün Boltaq (迭里温孛勒荅中合)での出産についても主な資料は共通して述べる。『集史』ではدلون بولداق Dilūn Būldāq 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著,小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号(1967), p.1-16. 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社(1970)p.79-80.
^ 杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)94-95頁などを参照。

参考文献

史料
小沢重男『元朝秘史全釈』3巻、風間書房、1984年-1986年。
小沢重男『元朝秘史全釈続攷』3巻、風間書房、1987年-1989年。
小澤重男(訳)『元朝秘史』(岩波文庫)2巻、岩波書店、1997年。
小林高四郎(訳注)『蒙古の秘史』生活社、1940年。
小林高四郎(抄訳)『元史』(中国古典新書)明徳出版社、1972年。
那珂通世(訳注)『成吉思汗實録』大日本図書、1907年。
栗林均、确精扎布 編『『元朝秘史』モンゴル語全単語・語尾索引』(『東北アジア研究センター叢書』第4号) 東北大学東北アジア研究センター、2001年12月。
村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(『東洋文庫』全3巻)、平凡社、1970年-1976年。
C.M.ドーソン(佐口透訳注)『モンゴル帝国史』(『東洋文庫』全6巻)、平凡社、1968-1979年。

研究書・論文
杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年。
本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年。
村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年。

その他の著書
岩村忍『元朝秘史 チンギス=ハン実録』(中公新書)、中央公論社、1963年。
岡田英弘『チンギス・ハーン 将に将たるの戦略』、集英社、1986年。
岡田英弘『チンギス・ハーン』(朝日文庫)、朝日新聞社、1994年。
岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』(ちくま新書)、ちくま書房、2001年。
小澤重男『元朝秘史』(岩波新書)、岩波書店、1994年。
勝藤猛『草原の覇者・成吉思汗』(清水新書)、清水書院、1984年。
小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書)、岩波書店、1960年。
白石典之 『チンギス・カン 蒼き狼の実像』(中公新書)、中央公論新社 2006年
ジャン=ポール・ルー(杉山正明監修 田辺希久子訳)『チンギス・カンとモンゴル帝国』(知の再発見双書) 創元社、2003年。
杉山正明、北川誠一『大モンゴルの時代』(『世界の歴史』9)中央公論社、1997年。
杉山正明『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書)2巻、講談社、1996年。
ブラウヂン『大統率者ジンギス汗の謎』飯村穰訳注(叢文社、1982年)
イワニン『鉄木真帖木児用兵論』参謀本部訳(陸軍文庫、1895年)
松尾裕夫「ジンギス汗戦法の一考察(1)(2)」(『幹部学校記事』第210-211号、1971年)

チンギス・カンを描いた作品

小説
蒼き狼(井上靖)
地果て海尽きるまで(森村誠一)
チンギス・ハーンの一族(陳舜臣)
世界を創った男 チンギス・ハン(堺屋太一)
射雕英雄伝(金庸)
火と光の子(山中恒)…児童向け小説

映画
征服者(1955年、アメリカ 監督:ディック・パウエル、主演:ジョン・ウェイン)
ジンギス・カン(1965年、アメリカ/イギリス/西ドイツ/ユーゴスラビア合作 監督:ヘンリー・レヴィン、主演:オマー・シャリフ、スティーヴン・ボイド)
ジンギス・カン(1987年、中国 監督:ジャン・シャンチー、主演:ドリ・グアル)
チンギス・ハーン(1992年、モンゴル 監督ベグズィン・バルジンジャム、主演:アグワンツェレーギン・エンフタイワン)
蒼き狼 チンギス・ハーン(1998年、中国 監督:サイフ、マイリース、主演:テューメン)
蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜(2007年、日本 原作:森村誠一、監督:澤井信一郎、主演:反町隆史)
モンゴル(2007年、ドイツ/カザフスタン/ロシア/モンゴル合作 監督:セルゲイ・ボドロフ、主演:浅野忠信)
スタートレックII カーンの逆襲(Star Trek II: The Wrath of Khan、1982年公開。20世紀末アジアから中東を統一したカーン・ノニエン・シンという架空の人物が登場)

テレビドラマ
蒼き狼 成吉思汗の生涯(1980年、日本 原作:井上靖、主演:加藤剛)

漫画
チンギスハーン(横山光輝)
王狼、王狼伝(作:武論尊 画:三浦建太郎)
女神の赤い舌(塚脇永久)
カラ・キタイの娘、シルクロード(神坂智子、『姫君の塔』に収録)
ルパン三世(モンキー・パンチ、「ジンギスカンの埋蔵金」に登場)

ゲーム
蒼き狼と白き牝鹿シリーズ(光栄)
エイジ オブ エンパイアII(キャンペーンモードで登場)

音楽
ジンギスカン

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、チンギス・カン に関連するマルチメディアがあります。ボルジギン氏
イェスゲイ
モンゴル帝国
ハーン
チンギス統原理
義経=成吉思汗説
ジンギスカン (料理)
チンギスハーン国際空港
チンギス・カンの伝記史料
『元史』
『元朝秘史』
『集史』
『聖武親征録』
『世界征服者の歴史』