2008-08-22
アニマル浜口
>アニマル浜口(アニマルはまぐち)のリングネームでの活躍で最も知られる、本名は濱口 平吾(はまぐち へいご、1947年8月31日 - )は、ヘビー級の元プロレスラーでボディビル指導者。ボディビルダー出身で国際プロレスや新日本プロレスで活躍し、闘将のニックネームで呼ばれた。生い立ち
島根県浜田市出身。父親が事業に失敗したため、小学5年生の時(1958年)、母親と妹と一緒に親戚の住む大阪府堺市へ移る。中学卒業後は家計を助ける為、高校進学を断念。工事現場を転々とする毎日だった。
国際プロレス時代
1964年に、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。その後、ボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。
浜口には格闘技の経験がなく、身長も公称178cm(実測170cmほど)とレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが国際プロレス社長で著名なアマレス選手でもあった吉原功からレスリングの直接指導を受け基礎を築き(このときの経験が後の京子への指導に生かされることになる)、効率的なトレーニングの工夫と頭脳的(ときに狡猾)なプレーで頭角をあらわす。
1972年にはディック・ザ・ブルーザーが主宰するアメリカ・インディアナポリスのWWAへ遠征、ブルーザーとの抗争を展開しトップスターとなる。
1973年の帰国後は、国際プロレスのメインイベンターのひとりとなる。しばらくタイトルには恵まれなかったが、1977年、グレート草津とのタッグでIWA世界タッグ王座を獲得、その後は主にタッグ戦のエキスパートとして、末期国際プロレスの中心選手となった。特にマイティ井上とのチームはIWAタッグの他にアジアタッグ王座も獲得し、和製ハイフライヤーズ、浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。1979年のプロレス夢のオールスター戦では後の盟友長州力とコンビを結成し全日本プロレスの「極道コンビ」グレート小鹿&大熊元司組と対戦している。一方で怪我や病気に襲われることも多く、国際プロレスが活動を停止した1981年8月は肝臓疾患のため欠場中であった。
新国際軍団時代
1981年9月23日、新日本プロレス田園コロシアム大会にラッシャー木村・寺西勇とともに来場。このときリング上で新日本に宣戦布告するはずのところ木村がいきなり「こんばんは」とやってしまいドッチラケになりかけた状況を救ったのが浜口のマイクアピールであった。
その年の10月に新日本プロレスとの全軍対抗戦に出場、そのまま木村・寺西と共にはぐれ国際軍団'を組み新日に参戦する。国際時代とは一転、ヒールとして新日ファンからの憎悪を買った。なかでもアントニオ猪木1人と旧国際軍団3人(ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇)の変則マッチは今でも当時を知るプロレスファンの語り草になっている。この試合では中堅をつとめ、フォール負けを喫するが アントニオ猪木のエネルギーを消耗させ、五分で渡り合った。そして主将であるラッシャー木村の勝ちに貢献した。さらに長州力とは維新軍団を結成して新日正規軍と対戦、同軍団の副将格、そして長州の参謀として大活躍した。なおこのときに始まる長州との交流は立場を違えてからも続き、浜口の引退時、長州は陰で声を上げて泣いたという。
ジャパンプロレス時代
1984年に突如、長州力・マサ斎藤らとジャパンプロレスを結成し全日本プロレスに参戦する。浜口自体に無類の強さという感じは無かったが、タッグとして主役級の相棒(タッグパートナー)を引き立てる”助演”の旨さに定評があり、ジャイアント馬場からも評価されていた。これは浜口とタッグを組んだグレート草津、マイティ井上、ラッシャー木村、寺西勇、長州力、キラー・カーン、谷津嘉章らが異口同音に浜口を評する言葉である。(なお馬場は、鶴田vs浜口シングル戦のTV解説時、最初に「全日本のエース鶴田、負ける要素は何もありません」と言った実況アナウンサーの倉持隆夫に「あなたの言うようだと浜口には勝つ要素は何もないみたいだけど、浜口はそう軽い相手じゃありませんよ」とたしなめたことがあり、試合終了後も浜口のファイトを絶賛していた。)
1987年にジャパンプロレス分裂→長州らの新日復帰に合わせ、現役を引退。浜口の引退は新日からジャパンプロレスに移籍する際に交わした、「トラブルを起こした場合は引退する」という約束を貫くため(キラー・カーンも同様)、また体調を崩しシリーズ欠場中でもギャラを支払ってくれたジャイアント馬場への恩義が影響していると思われる。引退セレモニーで「私はこの四角(リング)の中に魂があったんですよ。ありがとうプロレス。さよならプロレス」という浜口節と10カウントで締めた。
浜口道場設立後
引退後は アニマル浜口トレーニングジムを東京都浅草に開設。指導者となる傍ら、自らも一から体を作りあげて、ボディビルの大会(シニア部門)に出場した。
1990年、長州力が昔とは別人のような、精彩を欠いた試合を続けていた頃、浜口は引退後初めて新日の会場に現れる。長州がその日も不甲斐ない試合をしたのを見届けた浜口は、突如、その試合後のリングに乱入する。「おいっ長州、お前何やってるんだよ。こんな試合をして恥ずかしくないのか。」と、涙ながらに叫んで長州を張り倒し、馬乗りになってなおも張り手を見舞っていった。その後「昔のようなギラギラとした奴に戻ってほしい」と、長州の景気付けのつもりで、長州とのタッグマッチの対戦限定で現役復帰をし、暫くの間ビッグバン・ベイダー等と共闘し、長州と対戦する。後年にキャッチフレーズとなる「燃えろー!!」「気合だー!!」は、このころに初めて発したものである。(その後、長州とは一騎打ちを経て和解し、ジャパンプロレス時代以来のタッグを復活させたりした。)
1994年、セミリタイヤ状態を経て、WARに舞台を移して再度現役復帰。1995年には天龍源一郎、北原光騎と組んでWAR6人タッグ王座を獲得する。王座陥落後はリングからは遠ざかっているが、正式な引退表明はしていない。しかし、ボディビルに専念するために、受身に必要な脂肪を減量によりなくしてしまったことと、現役時代に肉体を酷使した影響で首を痛めているため、レスラーとしてリングに上がる可能性は低い。
その一方、このころからは名伯楽としてもクローズアップされ始めた。ジムからは小島聡、大谷晋二郎、大森隆男、小原道由、SUWA、本間朋晃らを送り出した。また、長女の浜口京子をアマチュアレスリングの世界チャンピオンに育て上げる名コーチとして注目を集めた。
現在
2004年アテネ五輪における「気合だー!!」という言葉の連呼(同年流行語大賞トップテンに選出)と、場合によっては周囲の迷惑を顧みないと非難された派手な応援(とくに掲示板の得点表示ミスに関する抗議)は海外のメディアからも一定の注目を集めた。同オリンピックを国民的に盛り上げた功労者との見方もある。娘に向かって「気合だー!! オィッ!! オィッ!! オィッ!!」と叫ぶ姿でプロレスファン以外の世間にも顔を知られる存在となった。
2008年に行われた北京オリンピックではアテネ同様に家族総出で現地に応援に駆けつけ、娘の連続メダル獲得に大声で喜ぶ姿が世界各国のテレビで放映されただけでなく、地元の新聞の紙面をも飾った。
プロレスラー・アニマル浜口
現役時代のトレードマークはターザン風のワンショルダー、赤・青ツートンカラーのタイツ。得意技はダイビングエルボードロップ、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ、エアプレン・スピン。ネックブリーカーは本家のジャイアント馬場からも褒められた。エアプレン・スピンはアンドレ・ザ・ジャイアントを回すのが現役当時の夢であった。入場テーマは『マタドール』(曲:日野皓正)。国際プロレス及び新日本プロレス参戦時には『フリーライド・サーファー(ZERO TO SIXTY IN FIVE)』という曲もテーマ曲にしていた。
弟子
プロレスラー養成所であるアニマル浜口レスリング道場からは数多くの門下生が輩出され、プロレス業界で活躍している。 ⇒詳細は、アニマル浜口レスリング道場を参照。
エピソード
見た目は強面だが、優しく涙もろい性格である。その人柄を慕う者は多い(愛弟子・小島聡がプロレス大賞MVPを獲得した時のインタビューでは泣きながら喜んで語っていた。また、張本勲はサンデーモーニングの週刊御意見番でいつも褒め称えている)。
熱狂的なジャイアンツファンでもある。
1995年5月、『リングの魂』(テレビ朝日系)の企画で、”憧れの人に会いたい”という企画で浜口の憧れの女優沢たまきと一日デートが実現した。いつもの気合は何処へやら、終始デレデレした意外な浜口が見られた。
以上、ウィキペディアより抜粋。


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