2008-10-08
王貞治
王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì/ワン・ツェンツー、1940年5月20日 - )は、日本生まれ・中華民国(台湾)籍の元プロ野球選手、監督。「ふるさと清掃運動会」実行委員長。日本国民栄誉賞の初代受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス監督。
概要
東京生まれで、父は中国人、母は日本人。現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。左投左打で内野手(一塁手)であった。
読売ジャイアンツ(巨人)の主軸として積み上げた通算本塁打数は868本、その他数々の日本プロ野球記録を保持する。参考までに、当時のアメリカ大リーグでの通算本塁打数記録はハンク・アーロンの755本である。巨人では入団から監督を退くまで背番号1を背に戦い、1番はチームの永久欠番となっている。「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる。
現在は福岡ソフトバンクホークス取締役副社長、ゼネラルマネージャー兼監督。ワールド・ベースボール・クラシック初代優勝監督でもある。二女の王理恵はタレント。監督としては、2008年シーズンが最後となる。
少年時代
東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)で中華民国籍(浙江省出身)の父・仕福、日本人(富山県氷見市出身)の母・登美(旧姓:当住)の間に生まれる。実は、5月10日に二卵性双生児の弟として出生したのであるが、戸籍上は5月20日が出生日とされている。これについては諸説あり、取り上げられても泣かないほどの未熟児であったため両親が出生届の提出を遅らせたことからという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のために届けが遅れたという説などがある。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は、1歳3か月で死亡した。その後も貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と本人が述べている。
父の仕福は兄の鉄城を医師に、弟の貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが区立本所中時代に、のちに指導を受ける荒川博(当時毎日オリオンズ)に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業学校高等部に進学することになる。高校受験での第一志望先である都立墨田川に落ちた結果であった。荒川との最初の出会いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王が出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右でもたないと親父に文句言われると思って…」と言った。それを聞いて荒川は、「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それを聞いた王は次の試合ですぐに左打ちを実践したところ二塁打を打った。王はそれからずっと左で打つようになった。
小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。
早実時代
早稲田実時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場に貢献。2年生の時にはエースとなり、センバツで3試合連続完封により決勝戦へ進出。決勝では4試合連続完封を逃したものの、完投勝利で関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成(延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である)。当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。3年生のセンバツでは30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。しかし、夏の甲子園には、東京都予選の決勝戦で敗れたため出場できなかった。
なお、国体には、当時の国籍規定のため出場できなかった。
現役時代
1959年〜1961年
1959年に契約金1500万円、年俸140万円という高卒新人としては破格の条件で読売ジャイアンツに入団。プロ入りの同期には村山実・板東英二・河村保彦・江藤愼一・田中俊幸・張本勲・足立光宏らがいる。球速が遅かったため当時の監督・水原茂に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。王のプロ入りは川上哲治の引退直後であり、後継一塁手のライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいだったことも王に幸いした。与那嶺はキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、(一塁のポジション争いではかなわないので)外野手に戻るよ」と言ったという。
オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、開幕戦(4月11日)の国鉄スワローズ戦では高卒新人ながら7番一塁で先発出場を果たした。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。この結果は長嶋茂雄の初試合4打席連続三振とよく比較される。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続いた。4月26日の対国鉄戦7回表、0-0、ランナー1塁という場面で王に打順が回った。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕ダッシュに成功して余裕があったこともあり、まだ新人の王に経験を積ませることを優先した。国鉄の村田元一が投じた内角カーブをすくい上げた打球はライトスタンド最前列に落ちた。プロ初安打がホームラン。これが王の記念すべき1号本塁打となった。
同年6月25日の天覧試合では7回、2-4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ラン。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打1号である。
1年目は.161、7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られる始末だった。
プロの水に慣れた2年目は.270、17本塁打(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手、木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。3年目には.253、13本塁打とやや成績を落とした。
入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149と期待に応えたとは言えないものだった。そのため1961年には阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められたほどである(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。
一本足打法
1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博打撃コーチの指導の下で一本足打法を習得。この打法は一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」とも呼ばれる。
王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそうのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えており[1]、一本足自体は年月をかけて習得したものでなく、たまたま上げたのが始まりのようである。しかし[2]2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から一本足で打つことを王に命じたが、それは春季キャンプ中に様々なフォームを試したなかのひとつでしかなく、よく語られる壮絶な特訓はこの後の事である。
7月1日の大洋戦でこの打法を試行、稲川誠から本塁打を放つなど3安打を固め打ちした。以後引退までこの打法を貫くことになる。
一本足打法を完成させるための壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた[3]。特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようである。
この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見れませんよ」(藤田談)とコメントしている。
南海ホークス時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん(野村の愛称)、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。その時野村は「ああ、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」(この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった)と感じたという。その後野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて遊びみたいなものだった」、「あれだけの練習した王だから、世界記録を作ってもなんら不思議ではない」と記している。
この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。同年から1974年までの13年間、本塁打王を独占し続ける。
翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。
以上、ウィキペディアより抜粋。


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