2008-11-07
ペリクレス・シャムスカ
ペリクレス・シャムスカ(Péricles Raimundo Oliveira Chamusca、1965年9月29日 - )は、ブラジル・バイーア州出身のサッカー指導者。現在はJリーグ・大分トリニータ監督。来歴
自身はプロ選手としての経験は無いものの、1992年、体育大学を卒業後にECヴィトーリアで監督としてのキャリアをスタート。以来サンタクルスFCやコリンチャンス・アラゴアーノ、ボタフォゴなどのクラブチームで指揮を執り、2002年にはブラジリエンセでブラジル杯準優勝を果たし、2004年には2部チームであるサント・アンドレを率いて、名門フラメンゴを破ってブラジル杯優勝に導いた。
2005年9月、若手育成に定評のある手腕を買われ、ボタフォゴの監督を辞任して大分トリニータの監督に就任。実弟であるマルセロ・シャムスカをヘッドコーチに伴い、それまで降格圏に低迷していたチームを上位陣からも勝利をおさめるチームへと変貌させ、「シャムスカ・マジック(後述)」と呼ばれるまでになった。なおシャムスカによれば、大分行きを決めたのは、彼の知り合い(元大分の通訳。シャムスカ就任時に大分に復帰)から大分の苦境を聞かされていて、自分の力が必要なチームだなと思ったからだという。
元鹿島監督のトニーニョ・セレーゾとは、1999年にヴィトーリアで監督とコーチという関係であり旧知の仲。 元東京ヴェルディ1969DFデジマール、元大分トリニータFWオズマールはサント・アンドレ監督時代の教え子で、パルメイラスに所属する元サンフレッチェ広島DFジニーニョ、元東京ヴェルディ1969MFアナイウソンはADサンカエターノ監督時代、元大分トリニータMFトゥーリオは、ボタフォゴ監督時代からの教え子に当たる。
甘いものが好きで、特にアイスクリームを好物としている。大分では試合に勝利すると、アイスクリームがプレゼントされるほどである。
ファンに対して非常に友好的で、最後の一人までサインをするなど大切にしている。
チーム造りの特徴
最大の特徴は「引き受けたチームの既存戦力で最大限の効果を発揮させる」ことにある。そのキャリアのスタートの頃は資金力に恵まれないクラブを率いてきたことから、現有戦力を約束事の元で整備して、組織サッカーで戦って結果を出していくというスタイルを確立したものとされる。ブラジルでは、若手監督の中でもかなり独自なその方針を評して「ニューウェーブの監督」という評価もある。
またマネージメント能力もさることながらモチベーターとしての才もあり、彼の元ではくすぶっていた何人ものベテランが再生し、若手が頭角をあらわすなど、単なる目先の結果に終わらない指導力が評価され、大分が彼にオファーを出したのもそこにあった。
逆に選手の激しい入れ替わりや、チーム自体がマスコミに騒がれることが好きではなく、ブラジルの強豪の大半(コリンチャンス、サンパウロFC、パルメイラス、など)やポルトガル代表、果てはブラジル代表のオファーをことごとく断ってきたという過去もそこにある。大分とも2009年までの長期の契約を結んだ。
しかし将来的な目標としてはブラジル代表監督を夢見ており、2014年のワールドカップを視野に入れている(実際にブラジル国内では将来の代表監督候補に挙げられている)。
具体的な戦術としては、現在の大分は堅守のチームというイメージが強いが、リードした場面でFWや攻撃的MFの選手を投入するなど実は攻撃サッカーが身上である。本人も「前に行くのを怖がらずに5人、6人、7人で攻撃するのが自分のサッカー」と語っている。また、前半押されていても後半しっかりと立て直しが出来ることもチームの特徴であるが、これは実弟であるマルセロヘッドコーチを前半は観客席に置き、その視点とピッチレベルから見るシャムスカ本人の視点とを融合し試合を分析することで可能になっている。
「シャムスカ・マジック」
2005年のシャムスカ監督就任時に大きく低迷していた大分の、まさに「V字回復」といえる快進撃が「シャムスカ・マジック」と呼ばれている。
2005年の大分は中盤以降勝てなくなり、シャムスカが監督に就任した22節終了時点の成績は5勝13敗4分け(勝ち点19)の17位(自動降格圏内)で、最下位のヴィッセル神戸にも勝ち点では並ばれていた。就任会見でシャムスカは「残り12試合で勝ち点18を取って残留する」と宣言したが、22節まで11試合勝ち星がなかった大分にとってはかなり厳しい数字であった(12試合で勝ち点18を取るには、6勝6敗・5勝4敗3分けなどの数字が必要になる)。なお、公約通り勝ち点18を取っていたなら勝ち点は37であった。これは2005年の最終順位では自動残留ギリギリの15位に相当し、シャムスカの読みはピタリだったわけだが、ここからチームはシャムスカの想定を上回る快進撃を見せる。
まず、初陣となった23節の浦和レッドダイヤモンズ戦で2-1で勝利を収める。相手が強豪で、しかもほぼ完全アウェーの埼玉スタジアム2002での試合だっただけにこの時点で驚きの声が聞かれた。次いで、この時点で下位には低迷していたが実力は高かった名古屋グランパスエイト・FC東京との2試合も1勝1分けで乗り切った。さらに、続く26節の横浜F・マリノス(2003・2004年の王者)戦もアウェーで3-0の勝利を収める。この試合では問題児木島良輔も献身的な動きを見せ木島を見捨てたマリノスサポーターからもその選手掌握術を賞賛された。わずか1ヶ月前まで自動降格圏をさまよっていたチームの突然の変貌ぶりに、会見では「シャムスカ・マジックと呼んでいいか」という声が飛んだが、シャムスカは「大分マジックと呼んでくれ」と返した。
その後も2005年シーズンで優勝したガンバ大阪にもアウェーで勝つなど、優勝争いをしていたチームにも互角以上の戦いを見せ(結果的に大混戦となった優勝争いに一役買った形となり、専門誌では後半戦のキーは対大分戦となると書かれた)、結局就任後の12試合で7勝2敗3分け(勝ち点24)の成績を挙げた。公約だった「勝ち点18」は8試合で達成した。就任時17位だった順位は最終的に11位まで上がっていた。このように、シーズン途中での監督交代でここまでチームがいい方向に傾いたことは、Jリーグの歴史の中でも珍しいケースである(監督が途中交代するチームは普通の場合その時点で下位に沈んでおり、しかも監督交代後もあまり調子が上向きにならないケースが多い。現に2005年にJ2自動降格となった東京ヴェルディ1969と神戸は2チームとも監督が途中交代した)。もちろん、シャムスカは元々の契約通り続投となった。
大分の監督として
2005年シーズンを上述の快進撃でJ1残留を果たし、大分ではカリスマ的存在となり、Jリーグでも「名将」と呼ばれるようになった。2006年以降、引き続き大分で指揮を執っている。
2006年シーズンは序盤こそややもたついたが、それまでリーグ戦で勝ちがなかった鹿島アントラーズにアウェーで快勝した頃から調子を上げ、さらには松橋章太と高松大樹のツートップが得点を重ねたこともあって、前年までのエースマグノ・アウベスが抜けた穴を感じさせなかった(しかし、代役として期待されていたオズマールとラファエルは、2人あわせても4ゴールという期待はずれな結果に終わっている)。当初は7位を目標にしていたシャムスカもチームの好調ぶりに、目標を4位と上方修正したほどだったが、終盤に失速し8位でフィニッシュした。
2007年シーズンは、中盤の総入換えが行なわれたもののなかなかフィットしなかったこと、また主力選手の相次ぐケガで、前半戦を17位という自動降格圏内で終えた。昨年同様、金崎夢生、小手川宏基といった若い選手や、シーズン途中にアルビレックス新潟から加入した鈴木慎吾の活躍もあり、浮上のきっかけをつかみつつもそれを活かしきれない状況が続いていた。しかし、川崎フロンターレには快勝、浦和レッズ、鹿島アントラーズには土壇場でドローに持ち込むなど上位を苦しめている。後半は上位陣から勝ち星を挙げることはできなかったものの、11月に入ると降格争いから抜け出し、最終節を待たず14位で残留を決めた。
2008年のシーズンは、松橋章太・梅崎司・三木隆司などが移籍によりチームを離れたが、堅守は維持、攻撃面でも金崎夢生をトップ下に据え、けが人が多くベストメンバーが組めない中、リーグでは上位を狙える位置につけている。また、ナビスコカップでは決勝で清水エスパルスを下し優勝。チーム史上初のタイトルを手に入れた。
その他
ADサンカエターノ監督時代には守備の要だったDFセルジーニョを試合中の心臓発作で失い、この時点でカンピオナート・ブラジレイロのセリエAで4位だった順位がズルズルと後退し、さらに選手管理の責任を問われて勝ち点24の減点処分を受け、最後には18位とセリエB降格寸前にまで落ちたという苦い経験もある。その経験もあってか、大分では選手の健康管理に相当気を使っている。
「チームはファミリー」がモットーであり、フロント・スタッフ・選手そしてサポーター一体のチーム作りを旨としている。試合の際にはベンチ入りできなかった選手および背番号12(サポーターの象徴)のユニフォームを掲げ、チーム全員で試合に臨む姿勢を示している。
試合終了後、試合の勝敗等に関わらず、必ず全員の選手と握手し選手の健闘を称えている。
試合終了後の記者会見では、試合の勝敗等に関わらず、必ず「こんにちは」と日本語で挨拶をする所から始まる。冷静に淡々と話すことが多く、両チームの選手を称えていることが多い。明らかに誤審があったりした場合などに皮肉を言う程度である。
2008年には、プロ野球(日本生命セ・パ交流戦)・横浜ベイスターズ対福岡ソフトバンクホークス戦で始球式を務めたり、海上自衛隊のイベントで護衛艦の一日艦長を務めたりと、選手以上に「大分の顔」として扱われる機会も増えている。
2008年11月1日にはナビスコカップ・初優勝とチームを輝かせた。
指導者経歴
ECバイーアジュニオール(ブラジル)1987-1991
ヴィトーリア(ブラジル) 1992-1995
サンタクルスFC(ブラジル) 1996
ミラソールFC(ブラジル) 1997
リオ・ブランコEC(ブラジル) 1997
アメリカFC(ブラジル) 1997
CAポルト(ブラジル) 1998
CEアラゴアーノ(ブラジル) 1998
ヴィトーリア(ブラジル) 1999-2001
コリンチャンス・アラゴアーノ(ブラジル) 2001
ブラジリエンセ(ブラジル) 2002
SERカシアス・ド・スル(ブラジル) 2002
ミラソールFC(ブラジル) 2002
サンタクルスFC(ブラジル) 2002-2004
ECサント・アンドレ(ブラジル) 2004
ADサンカエターノ(ブラジル) 2004
ゴイアスEC(ブラジル) 2005
ボタフォゴFR(ブラジル) 2005
大分トリニータ(日本) 2005-
以上、ウィキペディアより抜粋。


![5×10 All the BEST! CLIPS 1999-2009 [DVD]](http://images.amazon.com/images/P/B002PJZTT6.09.MZZZZZZZ.jpg)




